2009年5月30日(土)18時15分開場 19時開演
ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:森口 真司
- ドヴォルザーク:ノットゥルノ ロ長調 op. 40,B 47
- ドヴォルザーク:交響詩「水の精」 op. 107, B 195
- ブラームス:交響曲第2番 ニ長調, op.73
2009年5月30日(土)18時15分開場 19時開演
ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:森口 真司
2008年12月20日(土)18時15分開場 19時開演
すみだトリフォニーホール
指揮:寺岡 清高
ピアノ独奏:関本昌平
2008年6月22日(日13:30開場、14:00開演
第一生命ホール
指揮:伴野 剛
2007年11月25日(日)13:30開場、14:00開演
第一生命ホール
指揮:ゲルハルト・ボッセ
2007年7月15日(日)13:30開場、14:00開演
三鷹芸術文化センター 風のホール
指揮:寺岡清高
2007年1月14日(日)13:30開場、14:00開演
杉並公会堂
指揮:寺岡清高
「今年はモーツァルトの生誕250周年!」皆さんもうお馴染みのフレーズでしょう。世界中の演奏会場でモーツァルトの音楽が鳴り響き、日本でも空前のモーツァルト・ブーム。頭が良くなるだとか健康に良いだとか、何やら怪しげな謳い文句とともに、企画CDや関連書籍が大いに売れています。確かに、モーツァルトの音楽には、広く人びとの心に訴えかけて止まない簡明な美しさとでも言うべき魅力が溢れていますし、BGMとして流しっぱなしにしても煩くない一方で、一対一で厳しく対峙して切り込んでいくような聴取態度にも底を割らない懐の深さが備わっています。
結成以来、古典派・ロマン派の二管編成の管弦楽曲を中心的レパートリーに据えて活動してきたブルーメン・フィルにとって、モーツァルト・イヤーの今年、例えばオール・モーツァルト・プログラムで定期演奏会を開催することも容易に考えられたに違いありません。もし実現していたなら、聴衆、団員の双方にとって、それはそれできっと幸せなひと時となったことでしょう。ところが、これまでも一筋縄ではいかないプログラミングを提案・実現してきたブルーメンの選曲委員の面々は、おいそれと時流に乗ることを潔しとしなかったようです。むしろ、演奏の難しさでは定評のあるモーツァルトですから、聴衆、団員の双方にとって幸せであるどころか、不幸を招きかねないとさえ危惧したのかもしれません。……と冗談はともかく、ここに選ばれたのがサリエリであるというところに、得も言われぬ面白みを感じます。
アントニオ・サリエリ。ほとんど「モーツァルトを毒殺した男」としてのみ名前を伝えられてきた不運な音楽家です。ベートーヴェンの筆談帳にその噂が書き記され、プーシキンには劇詩の題材として利用され、それを元にリムスキー=コルサコフにオペラまで作曲され、挙句の果てには映画『アマデウス』の世界的大ヒット。いくら「根拠のないデタラメなんだけどね」と注釈を付けられても、やはりその週刊誌の見出し的インパクトの強力さには敵いません。ようやく近年になって、古楽の復興と足並みを揃えるかのように、サリエリ研究が進み、その音楽も演奏される機会が増えてきたようですが、完全な名誉挽回にはまだまだ時間を要することでしょう。
1750年、J. S. バッハ死の年に北イタリアのレニャーゴに生まれたサリエリは、16歳の時にウィーンの宮廷作曲家だったガスマンに見出され、弟子としてウィーンに移住します。以降、早くも20歳でオペラ作曲家として彼の地で名前を馳せ、24歳で宮廷作曲家、38歳で宮廷楽長の地位に就き、1825年にウィーンで亡くなる前年まで同職を全うしました。当時の音楽家としては最高に恵まれた生涯を送ったといえるわけです。ただし、流行の変化の凄まじい時代にあって、50歳半ばにはほとんど作曲から手を引き、以後は主に教育者として、幾多の音楽家を世に送り出す手助けをしたのでした。
サリエリに師事した生徒たちの名前の豪華なこと。有名どころだけ挙げても、ジュスマイヤー(一時モーツァルトの弟子でもあり、レクイエムの補筆で知られます)、フンメル、チェルニー、マイヤベーア、モシェレス、さらには何とリストまで! サリエリがいかに音楽的に幅の広い時代を生き抜いてきたかが分かります。そして、今夜お聴きいただく他の2人の作曲家、ベートーヴェンとシューベルトも、サリエリの教え子でした。
1770年にボンに生まれたベートーヴェンがウィーンに定住したのは21歳の時。当初ハイドンの教えを受けていましたが、ウィーンで音楽活動を続けているうちにサリエリとの知遇を得て、1795年には、サリエリの指揮する演奏会において、ベートーヴェン自身のピアノでピアノ協奏曲第1番が初演されています。すでにボン時代に作曲の基本的な素養を身に付けており、後年「ハイドンからは何も学ばなかった」と語っているベートーヴェンですが、こと声楽曲の作曲においては自信を欠いており、この点でサリエリは最適な教師だと見えたようです。1800年頃からおよそ3年間にわたって、イタリア歌曲とイタリア・オペラの様式に関して系統的なレッスンが行われ、その習作は、《サリエリのもとでの多声イタリア歌曲練習曲》WoO99として、25曲が現在にまで伝えられています。その後は、気難しいベートーヴェンのことですから、オペラ《フィデリオ》に対するサリエリのアドバイスを無視したり、自身の演奏会の開催日を、サリエリが指揮する音楽家協会慈善演奏会の開催日にぶつけてみたり(その時に初演された作品の1つが、今夜お聴きいただく交響曲第6番です)、ベートーヴェンが一方的に絶交を宣言するに至った時期もあったようですが、サリエリの大人の対応で事なきを得て、後年も交流が続いたと言われています。ベートーヴェンがウィーンで亡くなったのは1827年、サリエリの死後わずか2年のことでした。
一方シューベルトは、1797年に生まれて1828年に31歳で没するまで、生涯をウィーンで過ごしました。シューベルトとサリエリが初めて出会ったのは1808年、ウィーン帝室宮廷礼拝堂少年合唱団の団員補充試験でのこと。試験官がサリエリで、応募者の中の1人がシューベルトだったのでした。合格したシューベルトは、同時に寄宿神学校に入学することになり、やがて合唱団や学校のオーケストラでその音楽的才能を存分に発揮するようになったのです。その才能に驚いたサリエリは、自ら進んで週2日の個人レッスンを施すことを決め、それは1812年から3年間続いたのでした。ベートーヴェンと同様に、イタリア様式の声楽曲の手ほどきを始め、オーケストラ総譜のピアノでの初見演奏法なども教授したと伝えられています。結果的に見て、シューベルトはオペラの分野では成功せず、歌曲においても、イタリア様式とは対極的なドイツ・リートの開拓者として独自の道を歩んでいくことになったわけですが、師サリエリに対しては生涯変わらぬ尊敬と感謝の念を抱き続けたのでした。
このように、音楽家として頂点を極めながらも、その立場に安閑とせず、自分の得た知識と経験を若い世代に積極的に伝えようと尽力してきたサリエリ。教え子の代表格2人の作品とともにその音楽を聴いて、しばしこの不運な音楽家に思いを馳せる。今夜の演奏会は、まさにモーツァルト・イヤーに相応しい企画だと言えるのではないでしょうか。開演が楽しみになってきました。
ウェーバーの歌劇《オイリュアンテ》の台本作家として知られる女流作家ヘルミーネ・フォン・シェジーの新作戯曲『キプロスの女王ロザムンデ』上演のために、1823年12月、シューベルトは劇音楽の作曲を依頼されます。しかし本番までほとんど期間がなかったために、劇中の10曲は何とか作曲できたものの、序曲は間に合わせることができませんでした。そこで初演に際しては、前年に作曲していた歌劇《アルフォンゾとエストレッラ》の序曲をそのまま転用して急場を凌いだのですが、その後、1820年に作曲していた劇音楽《魔法の竪琴》の序曲のタイトルを《ロザムンデ》序曲に変更して、4手用のピアノ作品として出版しました。そういった経緯から、管弦楽版の劇音楽《ロザムンデ》の序曲としても《魔法の竪琴》序曲が演奏される形が一般化し、現在に至っています。
曲は、展開部を欠く序奏つきソナタ形式で書かれています。悲劇的な序奏、軽快な第1主題、優美な第2主題、そして心沸き立つコーダ、いずれの部分においてもシューベルトならではの明快にして繊細な音楽が堪能できます。
サリエリ晩年の1815年の作品で、作曲に至った経緯、初演の様子などは明らかになっていません。主題が提示されたあとに26の変奏が続き、最後にコーダが付された、全体で20分ほどの作品ですが、これほど大部の管弦楽のための変奏曲は、おそらく空前にして、後を継ぐのはようやく1873年になってから、ブラームスの《ハイドンの主題による変奏曲》の登場を待たねばなりません。
フォリアとは、もともとはポルトガル起源の3拍子系の急速な踊りを指す言葉でしたが、17世紀に入るとむしろ落ち着いたリズムを持つ舞曲へと性格を変えたばかりか、固定された低声部と旋律の枠組みを持つ、1つの定型へと収斂していったのでした。この素材を世に広める嚆矢となったのが1700年に出版されたコレッリのヴァイオリン・ソナタ作品5-12「ラ・フォリア」で、以降、ヴィヴァルディ、バッハ、ケルビーニ、リスト、ラフマニノフなど、数多くの作曲家がそのフォリアを取り込んだ作品を書いています。サリエリの変奏曲もまさにこの流れの中に位置づけられるもので、クラリネットとファゴットの四重奏で提示されるフォリアの主題は、コレッリのソナタの冒頭で聴ける形とまったく同じものになっています。
もともとの主題が帯びている哀調ゆえに、過ぎ去った日々を回顧する老境のサリエリの姿が目に浮かぶかのようですが、1つひとつの変奏曲は、管弦楽を扱う確かな技法の上に創意工夫が溢れ、間然とするところがありません。
交響曲第5番と並行して作曲が進められ、1808年に完成したこの曲、今夜演奏される3曲の中で最も早い時期の作品であるという点が、やや意外に感じられるかもしれません。前述したように、サリエリと衝突するきっかけともなった初演の日程、1808年12月22日、その日のプログラムは、交響曲第5番と第6番にピアノ協奏曲第4番、そして合唱幻想曲、その他、全体で4時間を超えるという凄まじいもので、会場となった真冬のアン・デア・ウィーン劇場は寒く、演奏者、聴衆ともに集中力を欠き、散々な出来に終わったことが伝えられています。
交響曲第5番がそれこそ絶対音楽の権化であるかのような隙のない構造を持つ厳しい音楽であるのに対し、ベートーヴェン自身が各楽章に標題を与え「田園交響曲」と明記したこの第6番は、情景を思い浮かべながらリラックスして聴ける穏やかな音楽であることは確かでしょう。ただ、第1楽章における徹底的な動機の活用、第1楽章の素材の後続楽章での再利用、複数楽章の切れ目なしでの接続、終楽章における到達点としての音型の類似などなど、作曲技法の点では、第6番は第5番の双生児であると言える特徴を備えています。同様の手法を用いながら、かくも対照的な情感を呼び起こさせる音楽を創り出す、まさにベートーヴェンの天才のなせる業です。
(文責:麻生哲也)
2006年9月30日(土)18:30開場、19:00開演
第一生命ホール
指揮:ミヒャエル・ディトリッヒ
2006年3月21日(火・祝)14時30分開演
第一生命ホール
指揮/独奏:桑田 歩
モーツァルトはその短い35年という生涯のうち、約10年2ヶ月を旅に費やしたという。特に幼少期の忙しさは尋常ではない。父レオポルドはモーツァルトの神童ぶりを各地にアピールし、彼の就職先を早くから決めておこうと、ヨーロッパ各地を精力的に飛び回った。旅はモーツァルトが6歳の頃から開始され、1762年ミュンヘン、1762~1763年ウィーン、1763~66年ヨーロッパ広域、1767~69年ウィーン、1769年12月~1771年3月イタリア、1771年8月~1771年12月イタリア、という、超がつくほどのハードスケジュールだった。
本日演奏するディヴェルティメント第2番は、その慌しい旅行の束の間の帰国期間、故郷ザルツブルグで作曲された、愛らしい小品である。それは、折しもモーツァルトがちょうど16歳の誕生日(1772年1月27日)を迎えた頃であった。16歳は、日本でいえば高校1年生。その早熟ぶりには、いつもながら圧倒される。
「ディヴェルティメント」とは、イタリア語の「divertire」(楽しませる)に由来する言葉で「喜遊曲」とも訳される。室内で夕食時に演奏されることが多く、軽快で明るい、くつろいだ雰囲気を持つ曲がふさわしいとされている。
しかし、このディヴェルティメント第2番に、その基準は、あまりあてはまらない気がする。
まず変わっているのは、曲の楽章構成である。普通のディヴェルティメントの楽章構成は「急→緩→急」が一般的だが、この2番に限っては「緩→急→急」という構成。つまり楽章ごとにテンポが上がっていく構成となっている(ストレッド型というそうだ)。
また、曲想的に変わっているのは、その第1楽章である。冒頭は、ひとりひっそりと呟くようなヴァイオリンのモノローグで始まる。それは少しずつ悲しみの翳を帯びていくが、だんだんと他の楽器が寄り添うように重なっていき、それから、心のもやもやを、さっと吹き払うような上昇音型が一斉に奏でられる。その頃には、曲全体に幸せな光が満ちていて、これが16歳の少年の手から生まれたものかと思うと、驚きを禁じえない。
第2楽章は一転して、溌剌としたアレグロ。ヴァイオリンが鮮やかな下降音型で駆け巡り、展開部は伸びやかな旋律が広がる。強弱の対比も鮮やか(なはず)。そして、第3楽章は8分の3拍子の愛らしい舞曲風。思わず踊り出しそうな躍動感のなかにも、堂々とした風格が失われていないのが印象的である。
ハイドンの全作品をまとめたホーボーケンの作品目録には、真偽不明の1曲も含めると、6曲のチェロ協奏曲が記されている。しかしそれらの中で真作と認められているのは第1番から第3番までの3曲で、しかも第3番は楽譜が失われてしまっている。このため現在、真にハイドンのチェロ協奏曲といえるのは第1番と第2番だけであるが、これらの作品も作品発掘からその真贋をめぐる論争まで紆余曲折がある。第1番はおよそ200年間も貴族の書庫や図書館に眠っていたが、1961年にチェコの音楽学者プルケルトによってハイドン時代の写譜が発見され、使用されていた紙の透かしをはじめとする資料的側面から信憑性の高い筆写楽譜と判定されると共に、冒頭主題をハイドン自身が「草案作品目録」に記載していることから真作であると実証された。第2番も、自筆譜の所在が明らかでなくなっていた19世紀以降、自筆譜が発見されるまでの約1世紀に渡り真贋が真剣に議論された時代があった。
本日演奏されるチェロ協奏曲第1番は作品の様式研究などの結果、1765~1767年頃に作曲されたと推定されている。当時30代になったばかりのハイドンは、エステルハージ侯の楽団の副楽長に就任していた。ハンガリー貴族の中で最も裕福で、代々の当主が音楽愛好家であった侯爵家の宮廷楽団には多くの優れた奏者がおり、彼らのためにハイドンは様々な協奏曲を作曲した。チェロ協奏曲第1番は1761年から1769年まで同団のチェロ奏者を務めたヨーゼフ・ヴァイグルのために作曲したのではないかと考えられている。この協奏曲は、トゥッティとソロを鋭く対比させるリトルネッロ形式や単調な伴奏音形など、多くの点でバロックの協奏曲の名残をとどめているが、第1楽章と第3楽章がテンポの速いソナタ形式で書かれているなどバロックと全古典派を融合しつつあった初期のハイドンの姿勢が示されている。
第1楽章 Moderato ハ長調 4分の4拍子
協奏風ソナタ形式をとっているが、ソロとトゥッティを鋭く対比させるリトルネッロ形式の名残が見られる。トゥッティによる快活な第1主題はやがて第1ヴァイオリンを中心とした旋律的な第2主題へと引き継がれ、再びトゥッティによるコデッタにより管弦楽提示部が結ばれると、独奏チェロが華やかに登場する。再現部は独奏チェロを中心に進められ、カデンツァを経て華やかなコーダで締めくくられる。
第2楽章 Adagio ヘ長調 4分の2拍子
三部形式。独奏チェロと弦楽のみで演奏される叙情的な楽章。弦楽合奏による魅惑的な2つの主題を独奏チェロ中心に展開させていく。中間部で用いられる短調の淡い哀愁を漂わせたメロディーが、ハイドンが旋律の大家である事実を感じさせる。そして主調による主題再現から作曲者自身による短いカデンツァを交え、静かに結ばれる。
第3楽章 Allegro molto ハ長調 4分の4拍子
協奏風ソナタ形式。バロック的要素を残す第1楽章とほぼ同じ構成をとっている。動機的な第1主題からより旋律的な第2主題が管楽器によって提示されたのち独奏チェロが登場する。展開部の長時間に渡り保持されたハイ・ポジションの使用は当時の習慣を超えるもので、ヴァイグルが如何に名手であったかが窺い知れる。再現部で主題がより華やかな形で奏され、華麗さ極まったところでトゥッティによる短いコーダで結ばれる。
メンデルスゾーンは1809年、非常に裕福なユダヤ人実業家の家に生まれ、何不自由のない環境のもと、17歳で「真夏の夜の夢」序曲を完成させるなど、早くから際だった音楽の才能を発揮した。1847年に38歳で夭逝してしまった点を除けば、(音楽家としては例外的に)順風満帆な人生を送ったとされている。
しかし、こと交響曲というジャンルについてはそう単純な話でもなかったようだ。「真夏の夜の夢」や「フィンガルの洞窟」を中心とした演奏会用序曲、協奏曲、声楽曲を発表することで名声を確立し、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの音楽監督・指揮者として活躍していた彼にとっては、交響曲のみがその業績から欠けていた。
ベートーヴェンは「第九」を1824年に初演し、その3年後に没した。以後おびただしい数の交響曲が作曲されたが、ついに彼の9曲の交響曲に比肩するものは生み出されなかった(「超えられない壁」というやつだ)。現存するオーケストラ・レパートリーとしてあげられるのは、ベルリオーズの「幻想交響曲」くらいのものであろう(シューベルトの大ハ長調「ザ・グレート」ですら、「しまいこまれたまま行方不明になっていた」)。メンデルスゾーンにとっても、ゲヴァントハウスの定期演奏会で取り上げる新作交響曲がどれもひどいということへの苛立ちがあった。「…手元に6曲の新作交響曲がある。それがいかなるものか、神はご存知だろうが、私の気に入るものはないだろう。しかし、この件について悪いのは誰よりも私なのだ。他のものはともかく、この私が交響曲の分野において成功できないとは。なんてこった!」と知人にもらしている。
このイ短調交響曲は、そのような状況の中、円熟した芸術家・メンデルスゾーンが後世に残せるものと唯一認めた交響曲である。若書きとして扱われがちな第1番や、声楽を伴ったカンタータ風の第2番「讃歌」はさておき、今日第4番とされる「イタリア」の校正作業はついに生前終わらず(あきらめたという説も)、第5番「宗教改革」に至っては「まったく我慢できず」「燃やしてしまいたい」とまで吐き捨てている(これらは生前発表・演奏はされているが、出版されたのは彼の死後しばらく経ってからである)。
メンデルスゾーンがこの曲の着想を得たのは1829年7月30日の夕刻、エディンバラのホリルード宮殿を観光中のことであった(詳細な記録が残っている)。作曲家としての自己を確立しようと強く意識した旅行中のことであり、これを自らの個性と実力を示す交響曲として完成し、早い時期に披露して世に問うことを強く望んでいた彼だったが、完成までには実に13年を要した。
彼が「スコットランドの霧とメランコリーを多分に含んだ、スコットランド交響曲のはじまり」と呼んだこの着想は、リート風の楽節で、16小節からなる。当初彼の頭にはクラリネットとフルートの音があったようだが、最終稿ではオーボエとヴィオラが旋律を担当している。続いて、レチタティーボ風のヴァイオリンがこれに応える。ヴァイオリンと2本のフルートによる印象的な応答を経て、ソナタ形式の主部(第1主題=クラリネット1本とヴァイオリン)が導かれている。第2主題はクラリネットによって奏されるが、全曲を通じたこの楽器の重用が目立つ。
第2楽章はスコットランドの民俗楽器であるバグパイプを想起させる節回しが多用される、軽快なスケルツォである。管楽器のタンギングにご注目あれ。
第3楽章のアダージョでは荒々しい付点動機が連続するが、途中チェロとホルンに現れる旋律の美しさはこの曲の白眉である。
前楽章を断ち切るようにはじまる終楽章は、勢いのある跳躍と「刻み」とが競演している。コーダで明快な長調に転じるが、「人類愛」や「苦悩から勝利へ」といった、わかりやすい(大団円的な)感動を喚起するものではなく、「スコットランド」という通称から受けるイメージから遠くない、清々しさを伴ったエンディングであるといえるだろう。
オーケストラは標準的な二管編成であるが、彼にしては珍しく、ホルンを4本用いていることが注目される。調性の異なるホルンを二対用いることで和声的厚みは倍増し、ホルンをソロ楽器として扱った際の管弦楽の響きも損なわれない。実際、第3楽章には3番ホルンに大ソロが控えている。
メンデルスゾーンは、1842/43年にこのイ短調交響曲を発表する際に、着想の起源を厳格に伏せ、存命中はそれを貫き通した。「スコットランド」という通称は、彼の知人や友人たちが作品を語りだすことによって公の場に持ち込まれたものであった。
彼は、音楽を言葉で表現すること自体が不可能だと悟っていた。言い換えれば音楽によってこそ彼の意図が明確に再現されるということになるだろう。
「…真の音楽は、言葉よりも千倍も良いもので私たちの魂を満たしてくれます。…もし私がその時に何を考えていたのかと問われるならば、そこにあるがままの歌そのものだと答えましょう。…音楽であれば、私たちは両者とも真に理解できるでしょう。…」
※参考文献: 星野宏美著『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』(音楽之友社、2003)
2005年9月24日(土)14時30分開演(14時開場)
第一生命ホール
指揮:ゲルハルト・ボッセ
4つの和音が誘う、ファンタジーの世界。
かすかな森のざわめき。飛び交う妖精たち。
突然のまばゆい陽光。祝祭の喜び。愛の幸福。
見える世界と見えない世界のクロスオーバー。
やがて、すべてはまどろみ、眠りにつく。
メンデルスゾーン、17歳。シェークスピアの戯曲「真夏の夜の夢」を題材とするこの序曲は、なんと霊感と才気に満ちあふれていることか。
裕福な銀行家の家に生まれ、また、バッハを敬愛し、古典への造詣の深かったメンデルスゾーンの作品は、端正で優美、上品さを感じさせるものが多い。その中でも、この「真夏の夜の夢」序曲は、前年に作曲された弦楽八重奏曲と並んで、若きメンデルスゾーンの生んだ傑作といえる。シューマンは、「この曲は、この作曲家の他の作品には見られないほどの青春の輝きを発している。熟練した大家が、最も幸福な瞬間に、最初で最高の飛躍をしたのである」と語ったという。
この曲でのメンデルスゾーンの管弦楽法は、ほとんど室内楽のような精密さと、常識を超える大胆さが表裏一体となっており、それが曲にみずみずしい色彩感と面白さを与えている。冒頭の木管の和音や分割されたヴァイオリンの刻み、独特の和声配置や最弱音の多用、テューバ(本来は、オフィクレイドという現代では廃れてしまった金管の低音楽器)の効果的な使用、などなど。
それだけにこの曲は、オーケストラの実力が問われる、ある意味とても恐ろしい作品なのだが、同時に、あまりにも魅力的な作品だ。ブルーメン初の再演曲にこの曲が選ばれたのも、単なる偶然ではあるまい。
なお、メンデルスゾーンは34歳の時に、この序曲に続く一連の劇音楽を作曲し、ポツダムの宮殿でこの劇音楽によるシェークスピアの「真夏の夜の夢」が上演された。序曲とこれらの劇音楽は、17年もの時の流れを感じさせない連続性、一体感があり、「スケルツォ」、「間奏曲」、「夜想曲」、そして有名な「結婚行進曲」など、序曲の霊感を受け継ぐ魅力的な作品が含まれている。現在は、組曲の形で演奏されることが多いが、これまたいつか演奏してみたいものだ、と個人的に思っているところである。
ブルーメンがハイドンの作品を取り上げるのは、交響曲第99番(第5回定期)、同97番(第16回定期)に続き、三度目である。
ハイドンは1761年(29歳)からオーストリア東部の小都市・アイゼンシュタットに居を構えるエステルハージ侯爵に仕える身となった。侯爵は熱狂的といってよいほどの音楽愛好家であり、その宮殿には400人以上を収容できるオペラ劇場をはじめ、それぞれ専用の喜劇場、人形劇場が備わっていた。盛時には年間250を超える上演回数をこなしたとの記録もあり、もはや一つの文化発信拠点であったといえるだろう。宮廷楽長ハイドンは作曲だけでなくあらゆる音楽の指揮を任され、お抱え音楽家たちの下稽古を助け、オーケストラにおいては自身クラヴィーアを担当し…といった超人的な活躍を28年に渡って続けたのであった。この間、午前中に鍵盤楽器の前に座って即興演奏に興じることでテーマを探し、昼食後はいわゆる「お仕事」、夜には午前中にメモした主題を元に作曲を行う、と極めて規則正しい生活を送っていたという(青年期のエピソードが少ないのも頷ける。妻はいたが不仲だった。子供もない)。
金銭的には恵まれた待遇であり、作曲家としての名声は宮廷を通じてヨーロッパ中に轟くようになったが、片田舎アイゼンシュタットから離れられない自分にとってウィーン、パリ、ロンドンといった大都市への憧憬が常にあった、と後年述懐している。
1790年に侯爵が亡くなり、自由の身となったハイドンのハートを射止めたのはロンドンで活躍していたヴァイオリンの名手・ザロモンであった。自ら大オーケストラを編成し、コンサートマスターとして演奏会を主催していたボン出身の彼は、新作の交響曲を含む作品を、作曲者自らの指揮で演奏するという企画をもってハイドンを訪れたのである。入場料を払って演奏会場を埋め尽くす大観衆を前に演奏できるという機会はハイドンの目にも大いに魅力的に映ったのだろう。既にモーツァルトが没し、ベートーヴェンがウィーンで活躍しはじめた年代において、ハイドンはイギリスへの進出を果たし、また自らと大衆のために音楽を作れるようになったのだ。
今回取り上げるト長調交響曲は、ウィーンで着手され、ロンドンで完成された。初演は1794年。ザロモンの依頼による12曲の新作(ザロモン交響曲)の中でも特に好意的に迎えられたという。
第一楽章は他のザロモン交響曲同様、アダージョの序奏に導かれたソナタ形式のアレグロである。第一主題は二本のオーボエを伴奏に従えたフルートによって奏される。ヴァイオリンにあらわれるチャーミングな第二主題は、ボッセ氏いわく、「ボッティチェルリの絵画『春』にある花(Blumen)のように」。
第二楽章は行進曲風のアレグレット。この楽章のみクラリネットが加わる。後半にはオーストリア軍の進軍ラッパを模したファンファーレが登場し、打楽器群を伴ったトルコ風のマーチが続く。
第三楽章はオーソドックスなメヌエットとトリオ。ボッセ氏の笑顔に応えられるか。
第四楽章はプレスト。ハイドン特有のユーモアが散りばめられている。コーダでは再び打楽器群が加わり、華やかに曲を締めくくっている。「軍隊」というよりは、「軍楽隊」といったところが正しいように思う。
なお、ハイドンにとっては「100番目の交響曲」という認識はなく、もちろん「軍隊」という副題もなかった。いずれも後世名づけられたものであることを付記しておく。
作曲:1799~1800年
初演:1800年4月2日 ウィーンのブルク劇場にて、ベートーヴェン自身の指揮で。
献呈:スヴィーテン男爵
ある日のブルーメン・フィルの練習で、トレーナーのS先生がベートーヴェンを始める前にこうおっしゃった。「みなさん、この曲はハイドンの105番のつもりで弾いてください」。
104曲の交響曲を残したハイドン(「交響曲の父」と呼ばれた)の愛弟子であるベートーヴェン。受け継ぐところは多かったかもしれない。ベートーヴェンは1770年ドイツのボンで生まれた。音楽家を志望していた彼は、1787年に音楽の都ウィーンへ旅行。当時ウィーンでは、ハイドンとモーツァルトという二大巨匠が活躍中であった。ベートーヴェンはモーツァルトに面会を求め、彼の前で即興演奏を披露。モーツァルトは「今に彼は世の話題となるだろう」と周囲の人たちに語っている。ベートーヴェンはそのままウィーンに滞在したかったが、母親の危篤のためボンに帰った。そしてそれを待っていたかのように彼女は亡くなった。
1792年、1回目のロンドン旅行からの帰り道、ボンに寄ったハイドンはベートーヴェンに会い、彼の作品を見た上で、彼の弟子入りを許した。そしてその年の11月、ベートーヴェンはウィーンに旅立ち、ハイドンの許で本格的に作曲の勉強を始めた。しかし、ベートーヴェンは必ずしもハイドンの教えに満足してはいなかったようだ。課題に対する添削をちゃんとやらなかったらしい。ハイドンは、1794年からの2回目のロンドン旅行にベートーヴェンを連れていくつもりだった。少なくとも、ハイドンにとってはベートーヴェンは弟子のつもり。ベートーヴェンがハイドンのロンドン旅行に何故同行しなかったのかはわからないが、あるいはそんな感情が働いていたのかもしれない。あこがれの地ウィーンで音楽家として生活することを夢見ていたベートーヴェンは、精力的に活動する。ハイドンがロンドンへ行ってしまったのをいいことに、他の先生を探し出し、勉強を重ねた。そんな彼のウィーンでの集大成がこの第1番の交響曲だった。完成は1800年。ハイドンやモーツァルトといった大先輩たちの影響を脱却すべく、数々の技巧と個性を駆使して作曲された。
ハイドンとベートーヴェンが決定的に仲違いをしたのは1801年のこと。ベートーヴェンの気持ちを何となく察していたハイドンは、ベートーヴェンのバレエ音楽「プロメテウスの創造物」を見た際「なかなかいい作品だ」とそれでも弟子を褒めたのだが、それに対してベートーヴェンは「あれは長い間かかった創造ではないですよ」と、ハイドンが苦心をして作り上げた大作「天地創造」を皮肉ったために、ついにハイドンも怒り心頭、「君のは創造物でもなんでもない、とんでもない作品だ」とけなしつけたのだった。
ある日の練習でボッセ氏がこうおっしゃった。「この曲を作ったころは、ベートーヴェンも若かったんだよ」。
確かに曲からはベートーヴェンの若さと自信がしっかりと感じられる。あまりにも偉大な「105番」が完成したといえるだろう。しかし、この時期すでに彼は耳の変調を感じはじめていたのだった……。
第1楽章 Adagio molto – Allegro con brio
当時としては珍しく長い序奏を伴う。しかも、ハ長調といいながらもハ長調を認識できるのはしばらくたってからのこと。Allegroに入ってからはソナタ形式。第1主題をヴァイオリンで演奏するのは当時のセオリー通り。第2主題は木管楽器が流れるように歌う。
第2楽章 Andante cantabile con moto
初演当時、この楽章はモーツァルトの交響曲第40番に似ていると話題になったそうだが、もっと爽快でチャーミングなもの。流れるような部分とリズミックな部分の組み合わせが印象的。ソナタ形式。
第3楽章 Menuetto : Allegro molto e vivace
従来の優雅なメヌエットとは違った、躍動的な音楽。メロディーは音階が中心のシンプルなもの。トリオ(中間部)は一転して同じ音を繰り返す管楽器に風のようにヴァイオリンが飾りをつける。
第4楽章 Finale : Adagio – Allegro molto e vivace
強打一発。しかし、第3楽章をひきずるかのように、しつこく音階を作ろうとする序奏が続く。Allegroに入ってからも、音階から始まるメロディーが高揚感を感じさせる。ソナタ形式。各楽器に出てくる音階の絡みからは、緊張感とともに音楽の素晴らしさがあふれ出る。曲の締めくくりは、ベートーヴェンならではの立派なものがすでに確立されている。
エドワード・エルガー(1857-1934)は大器晩成タイプといえる。プロの作曲家として認められるようになったのは40歳半ば過ぎ。楽器屋の息子と して生まれ、楽器に囲まれて育ったものの、正規の音楽教育は受けることなく育った。しかし、音楽をこよなく愛し、独学で学んだピアノ、ヴァイオリン、ヴィ オラ、ファゴットの腕を活かして、近所の病院や教会で演奏したり、ヴァイオリンやピアノを教えたりしながら、空いた時間に作曲をするなど、音楽的には充実 した生活を送っていた。27歳のときには、地元のウースター大聖堂で行なわれた「三大合唱祭」にヴァイオリン奏者として参加。ドヴォルザークの指揮のも と、彼の『スターバト・マーテル』と交響曲第6番を演奏している。
32歳のときに8歳年上のアリスと結婚。結婚後、本格的に作曲活動を始めることを決意したエルガーは、妻アリスを連れて、ロンドンに移住する。作品はなか なか受け入れられず、苦しい生活を余儀なくされたが、1899年42歳のとき『エニグマ変奏曲』が成功し、世間の名声を得てからは、王室音楽主任に任じら れ、数々の勲章や位を受賞するなど、とんとん拍子。次々に力作・大作を発表し、イギリスを代表する作曲家として不動の地位を築いていった。
この『序奏とアレグロ』は、エルガー48歳、円熟期の作品である。友人アウグスト・ヨハネス・イェーガー(『エニグマ変奏曲』の第9変奏のモデル)の「ロ ンドン響のために"輝かしく速い"スケルツォ作品を書いてみてはどうか」という提案が、この曲を作曲する直接のきっかけとなった。主題となった旋律は、エ ルガーが西ウェールズを旅行したときに耳にした民謡のモチーフ。曲は華やかでドラマティックな導入から始まり、牧歌的な美しい序奏を経て、きびきびとした アレグロに突入する。わずか15分たらずの中に、生き生きとした躍動感と生命感がぎっしり詰まった、香り高い名品である。
この曲の初演は1905年3月8日、ロンドン響。この曲はエルガー自身「出来がいい」と自信を持っていたにもかかわらず、聴衆にはまったく受け入れられな かった。それは当時のロンドン響の弦セクションのレベルが、この曲を演奏するには低すぎたせいではないか、と言われている。私たちの演奏がそうならないよ う祈るばかりである。
ジャン・シベリウス(1865-1957)の生涯の最後の30年余りは謎に包まれている。交響曲第7番の完成が1924年、その後大作といえば交響詩『タ ピオラ』、劇音楽『テンペスト』を翌年ものしたくらいで、その後数曲の小品を書いているものの、創作はぱったりと止んでしまう。いくつかの証言によれば、 シベリウスは自らの創作力に衰えを感じつつも交響曲第8番を作曲しようとしていたらしい。1931年の日記にも、「私は『第8番』を書いている。青春の 真っ只中だ」とある。しかしこれは結局完成することはなかった。その理由は不明だが、有力な説は「自己批判の強さから、断片的に書いては破棄してしまって いたのではないか」というものである。なるほど言われてみれば、交響曲第5番の初演が成功を収めたにもかかわらず大幅な改訂作業をしたり、交響詩『タピオ ラ』を出版段階で「書き直したいから返して欲しい」と語ったりしたというエピソードは、彼の自己批判の強さを物語っているようだ。
計らずも彼の最後の交響曲となってしまった第7番は、第5番、第6番とほぼ同時に着想された。1918年の手紙には「第7交響曲、生命と活動の喜び、情熱 的なパッセージを伴って。3楽章制で、フィナーレはヘレニック(ギリシャ風)・ロンド」とある。しかし書き進めてゆくうちに、第7番は単一楽章の曲とな り、『交響的幻想曲』と名づけて発表する予定であったが、初演の段階になって再び『交響曲第7番』に戻した。当時、このような独創的な交響曲は他に例がな かった。あらゆる動機は非常に単純かつ素朴なもので、それが有機的に一点の無駄もなく発展していく。また、一度は幻想曲と名づけたように、フィンランドの 自然の森羅万象を映し出したかのごときある種の標題性をも持ち合わせている。この絶対音楽的性格と標題音楽的性格の二重構造こそが、交響曲第7番の魅力を 不動のものにしていると言ってもよいだろう。
さて、聞く側に立ってみると、この曲には重要な2つの主題が計5回、アーチ状に登場するのに気付く。すなわち、序奏部の木管による主題、要所要所で現れる3度の長いトロンボーン独奏、そして終わりに登場するフルートとファゴットによる主題である。
まず、弦とホルンの神秘的な和声進行の中から木管が初めて主題らしきものを提示する箇所において、聞く者を深い雪と氷に包まれた森の中へと迷い込ませる。 この主題が一段落すると、弦による静謐な歌が優しく包みこみ、次第に全楽器が加わっていく中から1回目のトロンボーン独奏が登場する。この箇所は3度登場 する独奏の中でも最も印象的で崇高な部分であり、フィンランドの叙事詩『カレワラ』に登場する原初の神々を想起せずにはおれない(管弦楽におけるトロン ボーンの独奏といえば、モーツァルトの『レクイエム』から、マーラーの交響曲第3番、リムスキー・コルサコフの序曲『ロシアの復活祭』に至るまで、何がし かの宗教的な意味合いをもって用いられてきたわけだが、このシベリウスの用法も同様の意味があると考えられる)。その後もこのトロンボーン独奏を媒介とし て場面転換が行われるが、3度目の独奏が終わった後から曲は最大の混沌と盛り上がりを見せ、やがて沈黙の中から冒頭の主題の変形がフルートとファゴットに よって奏される。いつまでも見ていたい夢から覚めたような一抹の寂しさを覚えるが、それをコントラバスのピツィカートの先導によって弦が慰撫するように波 打ち、全楽器がハ長調の永遠の音を奏でてこの曲を終える。なお、完全にハ長調の和音に解決するのは最後の一瞬だけであり、直前までハ長調の和音にない音 (ニ音、ヘ音、ロ音)がどこかしらで鳴っている。最後の最後まで不思議な音の世界を聞き取ることができるだろう。
ところで―シベリウスは「交響曲やその他の大曲の構想が自分の脳裏をおとずれるのは厳冬に限られている」(1941年、ヘルシンキにおける近衛秀麿との会見で)という談話を残している。ここにはシベリウスの音楽の本質、その一端が現れているように思えてならない。
エニグマとはラテン語で「謎」。この曲の正式名称は『オリジナル主題による変奏曲』だが、エルガー自身がスコアに「ENIGMA」と書き込み、初演のプ ログラムノートに彼自身が「この曲にぼくはエニグマ(謎)を含ませた」と言及したことから、『エニグマ(謎)変奏曲』と呼ばれている。「謎」とは、いった い何なのだろうか?
*第1の謎:誰を表しているか、という謎
「私は1つの変奏曲をスケッチした。それは1つの主題に基づいており、私はその作曲を楽しんだ。なぜなら、それぞれに友人たちのニックネームをつけたから。君はニムロドという名前で出てくる」byエルガー。
このエニグマ変奏曲は14の変奏曲から成り、その変奏曲の冒頭には、それぞれアルファベットのタイトルが付けられている。上記のエルガーの言葉によると、 そのアルファベットは変奏曲中に描写された人物のイニシャルらしい。このイニシャルが具体的に誰を指しているかは研究が進んで、第13変奏「***」を除 いて、すべて明らかにされている。
*第2の謎:「演奏されない主題」、という謎
「全曲を通じて別の大きな主題があるのだが、それは実際には演奏されない」byエルガー。
この「演奏されない」主題、いわば「沈黙の主題」については諸説あって、いまだ解明されていない。有名な説としては①曲の冒頭で提示される主題のリズムが 「Edward Elgar」の自然な発音のリズムを表していることから「沈黙の主題=エルガー本人」という説、②主題の最初の音が「B」、2小節目の最後の2音が「A」 「C」、7小節目の主題の最終音が「H」であることから「沈黙の主題=Bach」という説、③エルガーが友人を描きこんでいることから「沈黙の主題=エル ガーの友情」という説、などが挙げられる。あとは、どことなく似ているという理由から、『蛍の光』、『イギリス国歌』、モーツァルトの交響曲第38番『プ ラハ』、グレゴリオ聖歌の『怒りの日』、スタンフォードの『レクイエム』なども挙げられている。しかし、いずれの説も決定打に欠けており、これからも議論 が続くことが予想される。
それでは曲を具体的に見ていきたい。
0.主題
ため息のような旋律が、問いと答えのようにひっそり交わされる。この最初の9小節の主題が、以下14曲に変奏される。
第1変奏 「C.A.E.」=キャロライン・アリス・エルガー(♀)
エルガーの妻。主題から切れ目なく演奏される。内省的でつつましい美しさにあふれた変奏。
第2変奏 「H.D.S-P. 」=ヒュー・デイヴィッド・スチュアート=パウエル(♂)
ピアニスト。小刻みに跳ね回る16分音符は、彼がピアノを弾いている様子を描写しているよう。
第3変奏 「R.B.T.」=リチャード・バクスター・タウンゼント(♂)
俳優。エルガーのゴルフ友達。ユーモラスなクラリネットのソロが、彼の裏声を使う様子を描写する。
第4変奏 「W.M.B.」 =ウィリアム・ミース・ベイカー(♂)
地主。スフォルツァンドは、彼が大声でまくしたて、大きな音を立てて扉を閉めて部屋から出ていくさまだと言われている。
第5変奏 「R.P.A.」=リチャード・ペンローズ・アーノルド(♂)
詩人の息子。物悲しい旋律と、軽やかな旋律の交錯は、彼の気まぐれな性質を表しているよう。
第6変奏 「Ysobel」= イザベル・フィットン(♀)
ヴィオラ奏者。ヴィオラのソロは、イザベルが跳躍の音型に挑戦している様子だと言われている。
第7変奏 「Troyte」=アーサー・トロイト・グリフィス(♂)
建築家。打楽器が活躍する賑やかな曲。ピアノを練習するが、うまくいかず癇癪を起こしている様子、という説と、サイクリング中、雷に襲われ木陰に避難している様子、という2説がある。トロイトはのちにエルガー夫妻の墓石を設計した。
第8変奏 「W.N.」=ウィニフレッド・ノーペリー(♀)
オーケストラの事務局員。温かい家庭的な雰囲気の曲。彼女の明るい笑い声と、彼女が住んでいた屋敷が描写されている。
第9変奏 「Nimrod」=アウグスト・J・イェーガー(♂)
音楽出版社ノヴェロ社の社員。エルガーは彼には「謎」のことを話し、「僕は君の外見上の姿ではなく、善良で愛すべき正直な魂だけを描いた」と伝えている。全曲中最も有名で、単独で演奏されることも多い。
第10変奏 「Dorabella」=ドーラ・ペニー(♀)
夫妻の友人。弦楽器のトリルは、彼女の「どもり」を表していると言われている。ヴィオラの朗々としたソロが印象的。
第11変奏 「G.R.S.」=ジョージ・ロバートソン・シンクレア(♂)
オルガニスト。川に転落した彼の愛犬ダンが、必死に泳ぎ、岸にたどり着く顛末が描写される。
第12変奏「B.G.N.」=バージル・G・ネヴィンソン(♂)
チェリスト。彼と、第2変奏に登場したスチュアート=パウエルと、エルガーは、3人でピアノトリオを組んでいた。
第13変奏 (***)(♀)
この変奏だけ、誰がモデルか、はっきり分かっていない。①船旅で知り合ったメアリー・ライゴン夫人②昔の婚約者ヘレン・ウィーバー③エルガーと相思相愛 だったジュリア・H・ワシントン、という3人が候補として有力である。ティンパニが船のエンジン音のような音を、クラリネットがメンデルスゾーンの『静か な海と楽しい航海』の引用を奏でているため、「船旅」と関係があることが予想される。
第14変奏 「E.D.U.」= エドワード・エルガー(♂)
作曲者本人。勇壮なフィナーレ。途中、妻アリス(第1変奏)とニムロド(第9変奏)が顔をのぞかせ、最後はオルガンも加わり豪華な響きのうちに締めくくられる。
2004年12月19日(日)14時開演
ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:森口真司
ブラームスはその作曲活動において、同時期に相反する性格の2つの曲を書くという傾向を持っていた。例えば、「ベートーヴェンの9曲の交響曲に匹敵する ものを」と考え、構想から20年もかけて作り上げた交響曲第1番と、それまでの長い道のりがまるで嘘であったかのように、その翌年に早くも完成させてし まった交響曲第2番が挙げられる。今回取り上げるこの『悲劇的序曲』についても同様のことが言える。作曲されたのは1880年であるが、ちょうど同じ年 に、ブラームスはブレスラウ大学から名誉博士号を贈られた返礼として『大学祝典序曲』を書いている。名前からしてもその対照性は明確である。
さて、『大学祝典序曲』と『悲劇的序曲』だが、ブラームスのこんな書簡が残されている。「大学のための曲は私をなおも別の序曲へと誘惑しています。私は それを『劇的な』とだけ名づけていいと思っています。」「この機会に私の孤独な気持ちに、『悲劇的序曲』を書くのを誓わざるを得ませんでした。」また、作 曲の数年前から直前にかけて、生涯愛を寄せたクララ・シューマンの息子フェリックスの死、親友の画家フォイヤーバッハの死、同じく親友だったヴァイオリン 奏者ヨアヒムとの不和(実際に絶交状態になったのは作曲後だが)といった出来事が続いていた。こうしたことが積み重なり、長年続いてきたメランコリックな 気分を表現すべく、ブラームスは『大学祝典序曲』を媒介として『悲劇的序曲』を作曲するに至ったと考えられる。
このように書いてくると、いかにも字面通りに悲劇的で、およそ演奏会の幕開けとしてはふさわしくないのではないかと思われるかもしれないが、実際聞いて みるとそんなことはなく、ブラームスの心情とは裏腹に、この曲には強靭な意志の力が満ちていて、悲劇的とは言いながらも決して涙は見せていない。よって、 「悲劇的」という名を冠するよりは、むしろ彼の書簡にあった「劇的」という言葉の方が的を射ているのかもしれない。曲はソナタ形式に基づき、激しい跳躍で 力強い第1主題、朗々と歌う第2主題が様々に展開していき、結尾ではニ短調の力強い和音で終わる。
最後に、この曲の編成はブラームスにしては大きい方で、ピッコロ、3本のトロンボーン、テューバを含んでいるが、これらの楽器の出番はきわめて限定さ れ、しかもそのほとんどが弱音であり、曲の経過部において神秘的で美しい効果を出す役割を果たしているということを付け加えておきたい。
あらすじ:寡夫の老マルケ王の甥・家臣で国の英雄であるトリスタンは、かつて他国の王女イゾルデの許婚を殺し重傷を負ったが、他ならぬイゾルデに助けら れ、互いに知れず愛し合うようになる。忠義心の厚いトリスタンは、自らの思いをよそにイゾルデこそマルケ王の後妻に相応しいと考え、自ら船で迎えに行く。 イゾルデはトリスタンと共に毒薬を飲んで死のうとするが、侍女が偽って媚薬を飲ませたため、二人は赤裸々に愛し合うようになる。密会の現場をマルケ王と家 臣たちに押さえられ重傷を負ったトリスタンは、故郷に帰るものの息絶え、追ってきたイゾルデもこれに続く。
以上簡単に書いたが、細部での感情や思想により重きが置かれており、内面的な劇と言える。
さて、内面劇と書いた「トリスタン」であるが、音楽的には調性が不明確であることが対応しており、それこそが画期的、かつ音楽的な大事件であるとされる。 つまり、音楽的な自然欲求である和声的解決や主和音が得られず、絶えずそれを求めつつも手が届かない状態が作られている。ワーグナー得意の無限旋律や半音 階進行も多用される。こういった手法を用いることで、「愛」といった明確に定義しにくい複雑な感情や、相反的な要素(「本音と建て前」「可愛さ余って憎さ 百倍」など)を内包した曖昧・微妙な感情をも表現している。結果的に、従来のオペラにありがちな「善玉」「悪玉」の二元論的なシンプルさとは全く異なるも のとなっている。
ちなみにワーグナー自身もこの作品には相当の自信があったようで、「驚くべき作品になる(第1幕作曲中)」「私の今までの芸術の最高峰(第2幕作曲終了 時)」「お前は悪魔の申し子だ!(第3幕作曲中)」「トリスタンは今もって私には奇跡だ(作曲後)」などと述べたそうである。作品成立の背景には、ドレス デン革命での指名手配中といった状況、ライフワークの「ニーベルングの指環」における行き詰まり、妻ミンナとの不仲、そしてなによりも、彼に隠れ家を提供 した恩人ヴェーゼンドンクの夫人マチルデとの「愛の耽溺」と、ショーペンハウアーの「生命への意志の究極の否定」といった思想への接近があった。
「前奏曲と愛の死」は、全3幕の最初と最後を接続したもので、本来「愛の死」にはイゾルデの独唱が入る。短いながらまさに全曲のエッセンスといえる曲である。
前奏曲:劇中の特に主要な動機で構成されている。冒頭のチェロ、続いて木管が有名な「トリスタン動機」を出す。ffまで到達した後、チェロに2つの「愛の 動機」が順に現れ、不吉な「運命の動機」がこれに絡む。以後これらの動機で展開し、「法悦の動機」も入って最高潮に達し、爆発した後、やや憂鬱なまま冒頭 の雰囲気へと戻っていく。
愛の死:冒頭、バス・クラリネットで出る「愛の死の動機」が次々に転調し、「愛の浄化の動機」も加わって恍惚と盛り上がる。楽劇中の密会時には阻まれた頂 点をようやく得て、イゾルデは「世界の息の通う万有の中に/溺れ、沈んで/意識なき至高の悦び」の中に息絶える。ワーグナーはこの曲を「隔てなき永遠の不 安なき合一」であると言っている。
この曲が作られたのは、1811~12年。
1812年は、それまで破竹の勢いで勢力を拡大してきたナポレオンが、ロシアで初めて敗退し、フランス革命から続いてきた革新の時代が終わり、新しい時代へと歴史が回転し始めた年。
音楽の世界でも、歴史が回転しつつあった。古典派を代表してきたハイドンは3年前に亡くなり、サリエリなども62歳となった一方で、新時代のロマン派を になう人々は、シューベルトがかろうじて15歳、あとはメンデルスゾーンが3歳、シューマンが2歳という幼児であり、まさに"はざ間の時代"だった。
■1812年当時の年齢
そんな中、ベートーヴェンは42歳。人生的にはともかく、音楽的にはまさに脂ののった時期で、それまでの古典派の音楽を自分のものとし、次の時代への準 備をしていた。ベートーヴェンの作品を通して見たとき、1810年頃から1816年頃までが中期から後期への移行期間とされており、この頃から作品の中に 哲学的なものを含んでいるようなものが増えていく。
■1810~16年の主な作品
そうした期間の作品の中では、この交響曲第7番は、とても勢いのある曲で、より中期に近い"華やかさ"を感じられる作品だ。音程・リズム・強弱を3大要素としたとき、そのうちのリズムが特に強調されており、とても躍動感のあるイキイキとした交響曲になっている。
第1楽章は、繰り返し現れる上行音型が印象的な序奏部を経て、8分の6拍子の主題に入っていく。ここからは「ターンタタン」というリズムが、常に現れ る。ソナタ形式だが、第1主題も第2主題も同じように「ターンタタン」というリズムを基本にしているので、第2主題の始まりには気付かないかもしれない。 聞いているうちに「ターンタタン」というリズムが身体に染み付いて、この楽章が終わっても、頭の中で鳴り続けてしまいそうだ。
第2楽章は、短調と長調の入れ替わりがとても印象的。短調部分は縦のリズムが、長調部分は横のメロディが大事にされているので、両者の違いがさらに浮き立ってくる。
第3楽章は、出だしから飛び跳ねるようにして進んでいく。第2楽章のイ短調に対して、ヘ長調であるというのも鮮烈な印象を与えてくれる。
第4楽章は、アレグロ・コン・ブリオ。すさまじい数のfやsfが書き込まれていて、ベートーヴェンの情熱が伝わってくるようだ。調性もイ長調に戻り、今 までの第1~3楽章をがっちりと受け止めて、この終楽章のための第1~3楽章だったのか、という勢いで感動的な終焉を迎える。
2004年4月18日(日)14時開演
かつしかシンフォニーヒルズ
指揮:山田和樹
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