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第23回定期演奏会プログラムノート

ディーリアス 間奏曲「楽園への道」~歌劇「村のロメオとジュリエット」より

 幼なじみの年若い二人が、山中の酒場「楽園」を目指して山道を登っていく。醜い諍いの果てに零落していく両家の陰でひっそりと芽生えた恋を携えて・・。

 歌劇「村のロミオとジュリエット」の英国初演に際し、ディーリアスがこの美しい間奏曲を書き加えたのは1910年のことであった。指揮にあたったトーマ ス・ビーチャム卿はこの曲をことさら愛し、作曲家の死後二管編成に縮小編曲して本日のような管弦楽演奏会でたびたび取り上げている。(ちなみに歌劇は、世 をはかなみ「楽園」を後にした二人が川舟に乗り、常世の国へ旅立つ場面で幕を閉じる。)
 ヴィクトリア朝の英国で富裕な商家に生まれたフレデリック・ディーリアスは、若き遊蕩遍歴の日々ののちアールヌーボーのパリに漂着し、やがて画家で聡明 な妻を得てからは、その半生を郊外の美しい水辺の村グレで作曲の日々に暮らした。形式的常套手段を嫌い、常に自身が感じ取ったものを優先させ、それでもな お彼のスコアのもつ美しさは、往時の音楽学生モーリス・ラヴェルにヴォーカル譜作成を引き受けさせるほどであったという。
 ディーリアスをなぜ好きか。この問いに私は当惑する。彼の作品にはしばしば、耳の官能を満たす甘美な旋律が見られず、特徴ある音型が意志の力により展開 しつくされることもなく、また理知的な導き手となるソナタ形式のような楽式も見当たらないからである。私たちは淡い彩色を施された絵画をのぞき込むように その音楽に立ち会うことになる。そこに見出されるものはうつろいゆく季節や風物の美しさと残酷さ、そしてそれらに感応する力を享けてしまった人間への ディーリアスの深く柔らかな眼差しである。 Man is a mystery; Nature alone is eternally renewing.(人間のことは分からない。ただ自然だけは永遠にめぐり続ける。) とは、その思想の最も深い意味合いにおいてフリードリヒ・ニーチェを敬愛した彼の生前の口癖であった。
 過去に当団でディーリアスの最晩年の作品を取り上げたシーズンでのこと。初めての練習が終わって周囲がさざめき始める中、あるオーボエ奏者がかすかな声 で「ほんとうに美しい音楽だ…」とつぶやいた夕刻の情景を、私は今も幸せな気持ちで思い出す。時が流れ、彼をその席に見ることはなくなったが、そんな小さ な記憶とともに皆と再びディーリアスで演奏会を始められる今を、私はやはり幸せに思う。

 

ラヴェル バレエ音楽「マ・メール・ロワ」全曲 

例えば〝優しい音楽〟とは、と訊かれたら、誰の曲を思い浮かべるだろう。シューベルト? サティ? 少なくともラヴェルを真っ先に挙げる人は多くはなさそうだ。
 しかし、モーリス・ラヴェル(1875-1937)の晩年の弟子・友人であったロザンタールはこう語っている。「ラヴェルのあらゆる音楽には、どんな時 期に書かれたものであろうと、心地よい、無垢な優しさの輝きを見出すことができる」 本当に全部の作品(『スペイン狂詩曲』や『ラ・ヴァルス』や…)が 〝優しい〟のか……、それは分からないが、しかし『マ・メール・ロワ』ならば、多くの人の耳に優しさをもたらしてくれるのではなかろうか。
「マ・メール・ロワ Ma Mere l'Oye」とはフランス語で「がちょうおばさん」、英語でいうところの「マザー・グース」である。つまりは童謡集だ。ご存知のように、原曲は4手のピア ノのための5つの小品を集めたシンプルなものである。無類の子供好きだったラヴェルは、この曲を友人の子2人のために作った。難しい奏法を極力避け、オク ターヴでさえも用いていない。子供たちへと向けられた心の優しさが、ラヴェルにこの曲を書かせたといってよい。童話の一頁一頁をめくるように、一曲一曲、 一音一音が丁寧に作られている。この曲はラヴェルが、演奏する子供たち自身に語り伝えた優しいお伽話なのだ。
 オーケストラ版は原曲の2年後にバレエ音楽として作られた。現在では、もともと在った5曲のみを演奏する「組曲」版と、曲を6つに増やし(順序も少し入れ替わる)前奏曲と4つの間奏曲をも加えた「全曲」版(本日のバレエ版)の両方が演奏されている。
 ラヴェルのオーケストレーションは神業のように美しく完璧である。彼はモチーフの多くを他の作曲家から拝借しているが、出来上がった作品、独特の響き は、ラヴェルその人のものである。彼は「聴衆を惑わす」ことがオーケストレーションだと語る。例えば〈眠りの森の美女のパヴァーヌ〉の冒頭。フルートがメ ロディーを奏でる裏で静かにホルンが対旋律を歌う。これだけでも十分に美しいのだが、ラヴェルはさらに、ホルンの音の中にヴィオラのピチカートを「密か に」加える。するとホルンとは少し違った音色が聞こえてくるわけだが、聴き手にはすぐにヴィオラだとは分からない、という仕組みである。極めて薄い作りで 進められていく『マ・メール・ロワ』だが、実はこのような繊細な技巧がたくさん散りばめられている。だからこそ、シンプルなのにこんなにも優しく魅惑的な 彼の音楽に、私達は引き込まれてしまうのだろう。  


眠りの森の美女のパヴァーヌ

 余談であるが、ラヴェルは、シューマンが、ほとんど白い鍵盤しか使わずにあんなにも人間味のある表現ができたことに、大きな感動を覚えていた。音楽は違えどもそこに共通するある種の〝優しさ〟に、今日は耳を傾けていただけたらと思う。
〈前奏曲〉神秘的な夜明け。遠くから信号ラッパ (ホルン)。後に出てくるモチーフが順に奏されてから曲は一気に高まりを見せ、幕が開ける。
〈紡ぎ車の踊りと情景〉バレエ版のために挿入された曲。『眠りの森の美女』の前半部分である。意地悪な仙女の呪いにより、糸を紡いでいた王女が指に怪我をするシーン。最後のオーボエのカンタービレで王女は気を失い、百年の永い眠りにつく。
〈眠りの森の美女のパヴァーヌ〉イ短調自然音階(エオリア旋法)。簡素で美しい曲。
〈間奏曲〉2人の黒人の子供。王女の眠りを小話で慰めるよう命じられ、劇中劇が始まる。
〈美女と野獣の対話〉まずはワルツによる美女のテーマ(クラリネット)。おどろおどろしい雰囲気に変わり、野獣の登場(コントラファゴット)。曲の後半で は両者が絡み合い、曲の最高潮で野獣は倒れるが、ハープのグリッサンドで野獣は王子に変身する。コクトーの映画を髣髴とさせるような、激的ながらも静かで 端正な音楽。スコアの冒頭には、美女と野獣との会話が書き込まれている。
〈間奏曲〉再び黒人の子供。次の物語への予感。
〈親指小僧〉7人の子供たちが道に迷う物語。末っ子の親指小僧が道しるべにパンを撒いていくが、鳥たちに食べられてしまう。ゆっくりとした変拍子が子供た ちの不安を表す。途中にヴァイオリン、フルート、ピッコロによる小鳥やカッコウの鳴き声も聞こえる。唯一フォルティシモになる箇所は、全曲を通して最も美 しいシーンの一つである。
〈間奏曲〉ハープ、チェレスタ、フルートのカデンツァ。全曲版ならではの聴き所。
〈パゴダの女王リドロネット〉「パゴダ」とは中国の首振り人形。女王がお風呂に入ると、人形達が楽器を弾きながら歌い始める。途中、銅鑼とともに女王の登 場。ここから曲はいっそうの異国情緒を漂わせる。女王も一緒になって踊り、賑やかに曲は終わる。スコアには、元になった『緑の蛇』という童話からの引用が 書かれている。
〈間奏曲〉冒頭の、夜明けの音楽の再現。
〈妖精の園〉森が優しく目覚め始める。王子の登場。音楽が静かに頂点に達したところで夜が明ける。それに続くソロヴァイオリンとチェレスタは王女が目を覚ます姿を表している。最後にはこれまでの全ての登場人物が集まって、輝かしいフィナーレとなる。
                                

シューマン 交響曲第1番「春」 変ロ長調 作品38

1840年、シューマン30歳。この年、シューマンは大きな転機を迎えた。長らく果たせずにいたクララとの結婚が実現したのである。それは、クララの父親 の強硬な反対(妨害)に遭い、裁判にまで持ち込んで、ようやく達成された結婚であった。この結婚の4ヶ月後に、この交響曲第1番「春」は作られた。作成に 要した期間はわずか4日間。ほとんど寝ずに一気に書き上げられたと言われている。
この曲はシューマン自身によって「春の交響曲」と呼ばれ、当初は楽章ごとに「春のはじめ」「黄昏」「楽しい遊び」「春たけなわ」という標題が付けられてい た(出版の段階で削除された)。たしかに、この曲では、随所に、春らしい躍動感と喜びを見出すことができる。冒頭で高らかに鳴り渡るトランペットのファン ファーレは春の訪れを告げているようだし、それに続く序奏は、雪が溶け、木々の芽が芽吹き、花のつぼみが膨らみ、風と陽光が柔らかくなっていく、早春の雰 囲気を表しているようだ。そして、主部は圧倒的な喜びの賛歌。そのうれしそうなことといったら、少し病的な躁状態?と思ってしまうほどである。それに続く 2楽章の優しい詩情に満ちた雰囲気、3楽章の力強さとコケッティッシュさ、4楽章の蝶が戯れているような旋律と悪魔が踊っているような旋律(『クライスレ リアーナ』第8曲の旋律)の交錯……それぞれ、どれも印象的である。しかし、最も印象的なのは、全楽章を通じて見られる、前へ前へと進む駆動力の強さ、テ ンションの高さ、ではないかと思う。執拗に繰り返される付点のリズム、不自然なアクセントなどは、この駆動力やテンションを強めているようだ。ここでの 「春」は、「春眠、暁を覚えず」「ひねもすのたりのたりかな」「ぼあーんぼあーんと桃の花見ゆ」といった、のどかな、そして、そこはかとない憂いを秘めた 日本の「春」とはだいぶ違う。もっと色彩が鮮やかで、陽光の強い「春」である。
さて、この「交響曲」が作られた重要な背景としては、1839年に発見・初演されたシューベルトの交響曲第9番の影響が挙げられるだろう。確かにシューベ ルトの交響曲第9番「グレート」と、この交響曲第1番「春」は、冒頭の金管の旋律、序奏、主部の雰囲気など、類似点が多い。一方、「春」のインスピレー ション源としては、アドルフ・ベッドガーの「汝、雲の霊よ」という詩が挙げられる。ただし、注意すべきは、ベッドガーの詩が、決して「春らんまん」の詩で はないということである。それは、暗い冬の情景を描いた詩であり、春の描写があるのは、最後の2行だけ、唐突ともいえるかたちで出てくる「おお、変えよ、 おんみの巡りを変えよ ―谷間には春が萌え出ている!」という詩句だけである。1840年に、ゲーテ、ハイネ、リュッケルト、といった詩人の詩に曲を付けて、140曲もの歌曲を 作曲しているように、シューマンは詩に関して非常に深い造詣を持っていた。そのシューマンが、あえて、この無名詩人の詩に強く惹かれたのは、なぜなのだろ うか。
1810年、シューマンは5人兄弟の末っ子として生まれ、家族や近隣の人にかわいがられ、幸せな幼年時代を過ごした。しかし、10代半ばから次々と不幸な 事件に襲われる。16歳のときに姉エミリーリエが自殺。その10ヶ月後に父アウグストが急死。シューマンは激しいショックを受け、この年に最初の精神発作 を起こす。それからは続けざまである。22歳…右手の第三指麻痺(ピアニスト断念)。33歳…兄ユリウスと義姉ロザリエの死、最初の自殺未遂。34歳…親 友シュンケの死。36歳…母ヨハンナの死。38歳…兄エデュアルドの死。このような、たびかさなる肉親の死を経て、シューマンは、病気(例えばコレラ)や 死(例えば自分の自殺)に対して強い恐怖を抱くようになったと言われている。日記や手紙には「これまでお金を使うことぐらいしかしていないのに、今20歳 で死ぬのかと思うと気が狂いそうになります(1831)」「頭への血の逆流、言い表せないほどの神経過敏、息切れ、突然の失神に見舞われます (1833)」「僕はどうなっていくのだろう、死ぬほどのつらさに笑い出したいくらいです(1837)」といった記述も見られる。
そのような精神状態のなか、シューマンは常に依存と愛着の対象を探し、さまよった。とくに恋人には、精神的な支えだけではなく、経済的な支えも求めたよう だ。シューマンは、クララの前に婚約していたエルネスティーネと1836年に婚約を破棄しているが、その理由について、次のように書き送っている。「今こ そ言ってしまうが、医者は優しく慰めて、結婚が唯一の治療法だから結婚したまえ、と勧めたのだ。当時、君(クララ)はまだ子どもから娘への成長期だったの で、僕の眼中にはなかった。ちょうどその時エルネスティーネが現れたのだ。とてもいい娘だった。僕は全力で彼女にしがみつこうとした。だが僕は彼女が貧し いことを知った。僕自身どんなに頑張っても稼ぎが少ないとなると、先行きどうしようもないことが分かった。君は僕を非難するだろうが、僕はそんなことで、 だんだん気持ちが醒めてしまったのだ。エルネスティーネは一文も稼げなかった。僕は母と相談して、彼女と結婚すれば苦労ばかりが増えるだろうということで 意見が一致したのだ(1838)」。このような手紙を悪びれずに書き送るシューマンもすごいし、読んで愛想をつかさないクララもすごい。クララはシューマ ンより9歳年下であったが、すでに一流のピアニストであり、稼ぎもシューマンの比較にならないほど多かった。シューマンがクララに宛てた手紙には「君はす べてにおいて僕より優っている(1838)」「君は最高の尊敬にふさわしい素晴らしい少女だ(1839)」「英雄的な少女はその恋人をも英雄的にします (1839)」という記述もあり、シューマンにとってクララは、年下のかわいい恋人という以上に、経済的にも精神的にも自分を支えてくれる、非常に大きな 存在であったと思われる。
1835年、シューマンとクララは互いを恋人と認識するようになるが、クララの父親はこれに猛反対し、1840年、裁判所で判決が下されるまでの5年間、 常に激しい妨害を続けた。これはシューマンにとって非常なストレスであった。加えて、この頃、クララのピアニストとしての活躍は目覚ましく、演奏旅行で各 地を飛び回るクララに対して、シューマンは焦燥感を募らせている。この時期には「クララはお前のものだ ―お前のものなのだと、僕は思いました。それなのに彼女のところに行って手を握ることもできないのです(1837)」「これが最後になるかもしれません (1837)」「君の婚約の記事を新聞で見ることを想像しました ―床に身体を打ちつけて声をあげて叫びました(1838)」というような不安や焦燥を吐露した手紙が非常に多い。
シューマンにとって、クララはまさに「春」だったのだろう。ベッドガーの詩のラストで詠われる、寒くて暗い冬に終わりを告げる「春」だったのだろう。この 曲には、長い不安の時代を抜けて、ようやく「春」を得ることができたシューマンの喜びが満ちている。この13年後にライン川に身を投げ、その2年後に精神 病院で生涯を閉じるシューマンの、最も幸せだった時期の「春」を、今日、皆様と共有することができれば、幸いである。 

第22回定期演奏会プログラムノート

モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲 変ホ長調 K.620 

この歌劇『魔笛』序曲が作曲されたのは、W.A.モーツァルトが死去するまさにその年、1791年のことであった。
 初演間近にかろうじて脱稿した頃には病魔が体の深部へ達しており、モーツァルトは常に自らの死を意識しつつ作曲を推し進めていったに違いない。そのため、この曲は彼の遺書であると考えるむきも少なくない。
 話はさかのぼるが、モーツァルトは1784年に大きな転機を迎えていた。かねてから強い関心を示していた秘密結社フリーメイソンへの入団を許されたので ある。晩年のモーツァルトを精神的に支えたのはその理念であり、物質的に支えたのはそこで交わる仲間達であったわけだ。そのため、この遺書としての性格が 強い『魔笛』にはフリーメイソンの理念・象徴体系がそこかしこに現れてくるだけでなく、あらすじも、主人公タミーノがその参入儀礼を乗り越えてゆく過程の 話だと考えて差し支えない。
 それでは、そもそもフリーメイソンの目指す理念とは一体何なのか。それは、徳を備えた個人としての人間の完成、そして人種や国家の枠にとらわれず、「自 由・平等・博愛」の精神を持った人々による人類共同体の形成、この2点に集約される。序曲でこの理念が明瞭に反映されているのは、冒頭と中間部に出てくる 「3回の和音」であろう。参入儀礼が「3回のノック」を合図にして始まることからも分かるように、この「3」という数字はフリーメイソンの象徴体系の中で も特別な地位を占めており、歌劇全体を通してこの数字を探し出すのは容易なのだ(序曲の調性もフラット「3」つの変ホ長調!)。そのため、冒頭からフリー メイソンの理念を堂々と披露してみせるモーツァルトの意気込みたるや、もう感嘆を覚えずにはおれない。この「3回の和音」は、モーツァルトがいかにフリー メイソンの理念にコミットしていたかを雄弁に物語っているのである。
 以上、モーツァルトとフリーメイソンの関係から曲を見てきたが、この序曲、そんな小難しいことを考えなくても音楽自体が十分に素晴らしい。形式は序奏付 きのソナタ形式で、主部と展開部に見られるフーガ、木管楽器によるデュオなど聴き所・見所満載であり、演奏会の幕明けにこれほどふさわしい曲は少ないであ ろう。

 

モーツァルト オーボエ協奏曲 ハ長調 K.314

 木管楽器を独奏としたモーツァルトの協奏曲は、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットと、どれも珠玉の名曲ばかりですが、中でもオーボエ協奏曲 といえばモーツァルト、と言っても過言ではないくらい、モーツァルトのオーボエ協奏曲はオーボエの曲の中の名曲中の名曲です。
 このオーボエ協奏曲は、1778年、マンハイムで作曲されたと言われていますが、この曲をモーツァルト自身が音程を2度上げてフルート用に編曲し、フルート協奏曲第2番ニ長調となったことでも有名です。
 また、このオーボエ協奏曲の第3楽章のテーマのメロディは、1781年に作曲されたオペラ「後宮からの誘拐」(K.384)の第2幕の最初のアリアにも再び利用されています。
 

 第1楽章は、大変さわやかで軽やかな曲で、華やかなサロンに良く似合う曲です。ソロとオーケストラが絶妙に絡み合っていて、緊張感を保ちながら音楽が展開していきます。
 第2楽章は、豊かなオーケストラの序奏の後に、秋の空のように青く澄みきった素晴らしいメロディをオーボエソロが奏でます。
 第3楽章はロンド形式で、同じテーマが最初を含めて4回でてきますが、さすがはモーツァルト、4回同じことはさせません。それぞれに子どものいたずらのように微妙な細工が施されていますので、是非耳を傾けてみてください。
 

 さて今回は、本日の演奏会の指揮者である古部賢一氏をオーボエ独奏としてお迎えし、独奏をしながらオーケストラの指揮もする、いわゆる「吹き振り」の形をとっております。
 とは言っても、独奏者が指揮をする、というよりもむしろ、ソロオーボエを中心に室内楽的な雰囲気が出せればと思っております。何はともあれ、魅惑の古部ワールドを存分にお楽しみください。

 

ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」 

 ドイツ古典~ロマン派をメイン・レパートリーとするブルーメンだが、その保守本流ともいえるベートーヴェンの奇数番号交響曲への挑戦はこれがはじめてである。
ジャジャジャジャーン、と活字にしただけで連想されてしまうこのハ短調交響曲は、いわゆるクラシックに分類されるすべての曲の中で最も有名なのではないだ ろうか。日々の生活でも時折耳にするこの「・タタタ/ター」というモチーフは、もはや「運命」という言葉の代名詞になってしまった感がある。それは現代に 限ったことではなく、かつてメンデルスゾーンは結婚行進曲(「真夏の夜の夢」)に、マーラーは葬送行進曲(第五交響曲冒頭)にこれを用いているが、対極に 位置する「結婚」と「死」に共通のモチーフが扱われていることは興味深い。
この交響曲の最初のスケッチは今からちょうど200年前、1803年(第三交響曲の完成間近)にはじめられていた。初演は1808年、第六交響曲「田園」と同時に、作曲者自身の指揮で行われている。
 「なんてやかましい曲だ。天井が落ちてきそうだ!」
 文豪ゲーテはこう評したというが、当時の人々がこの曲をどう受け止めたか良くわかる。それまでの交響曲は形式にのっとった音楽の中に「美しさ」を求め る、ともすればイージーリスニング的なものが多かったのだが(例外はもちろんある)、ベートーヴェンはこれに人々の心に訴えかける感情(熱情?)を盛り込 むことに成功した。それはよく「苦悩/闘争から歓喜/勝利へ」などとされ、この曲の成功を受けて彼に続く多くの作曲家に模倣された効果的なプログラムであ るが、当時の聴衆の期待―適度に心地よいフレーズが流れる社交の場としての音楽会―には大いに反するものだったのだろう。
 この曲は様式的にも革新性に溢れている。冒頭の1つの休符と4つの音符からなる、いわゆる「運命のモチーフ」によって曲全体が有機的に統一されており、 ベートーヴェンの作品中各楽章が最も緊密な構成をもっているものといえる。また、短調に始まり長調に終わるという楽章構成は交響曲史上はじめての試みだ が、切れ目なく演奏される3・4楽章の移行部は特に劇的な効果をもたらしている。さらに終楽章ではこれまで交響曲には用いられてこなかった新しい楽器を新 たに取り入れている。すなわちピッコロで高音を、コントラファゴットで低音を補強することにより管楽器の音域を上下に拡大し、宗教的な楽器であったトロン ボーンまで持ち出して(無茶な使い方ではあるが!)荘重な響きを作り出している。
 

第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ ハ短調 4分の2拍子
フォルティシモによる衝撃的な開始(弦5部とクラリネットによる)はあまりにも有名であり、このテーマが徹頭徹尾追求される。畳み掛けるような緊張感の中、オーボエによる一瞬のカデンツァが実に印象深い。
 

第2楽章 アンダンテ・コン・モート 変イ長調 8分の3拍子
 ヴィオラとチェロによるテーマに先導される、やすらぎに満ちた変奏曲。金管によるハ長調のファンファーレを第二主題とみればソナタ形式ともいえる。
 

第3楽章 スケルツォ アレグロ ハ短調 4分の3拍子 
不安感を漂わせる低弦と木管の掛け合いにホルンの悲痛な叫び(運命のモチーフ)が続く。トリオは低弦から高弦へのフガート形式。再現部は徐々に弱々しくなり、心臓の鼓動のようなティンパニを伴った弦に導かれて終楽章へのブリッジ(橋掛け)へと続く。
 

第4楽章 アレグロ ハ長調 4分の4拍子
 溜まりに溜まったエネルギーを一気に放出するかのような、歓喜/勝利と評されるファンファーレによって幕が開く。途中スケルツォの回想を挟み、再現部で気分は一層高揚する。コーダ(プレスト)ではハ長調の和音がこれでもかと続き、壮大な大団円を迎える。
 

この曲は日本では昔から非常に人気のある曲で、演奏会でも数多く取り上げられ、何十種類ものレコード・CDが発売されてきた。有名すぎるがためか、はたま たより大編成の派手な曲を聴衆が好んだためか、プロのオーケストラでは定期公演以外の「名曲コンサート」などで演奏される程度になってしまった時期もあっ た。一方学生オーケストラなどのアマチュアではアンサンブルを学ぶための格好の教材として盛んに取り上げられており、数回の演奏経験をもつ者も決して珍し くない。しかし、この曲の偉大さは通俗名曲として片付けられるものではなく、演奏するたびに発見があり、特に終楽章ではその都度新鮮な解放感を味わうこと ができる(疲労も相当なものだけれど)。本日はこの曲をこのメンバーで演奏できる、という喜びを皆様にお伝えできれば幸いである。

第21回定期演奏会プログラムノート

スッペ:「軽騎兵」序曲 

スッペは1819年アドリア海に臨むダルマティア地方の港町スパラート(現在クロアチアのスプリト、2002年のウィンブルドンの優勝者ゴラン・イワニセビッチはこの町の出身)に生まれた。
幼い頃から音楽の才能を発揮し、13歳でミサ曲を作曲した。
一時イタリアのパドヴァで法律を学んだが、その間にもイタリアのオペラに触れ、ミラノに赴き作曲家のロッシーニやドニゼッティ、ヴェルディとも親交を結んだ。
オーストリアの官吏だった父が1835年に亡くなると母の故郷ウィーンに移り、この頃から本格的に音楽家を志した。
スッペは1860年にウィーンにやってきたオッフェンバックに触発され、最初のウィーン風オペレッタを作曲したため、「ウィンナ・オペレッタの父」と讃えられている。
しかしながら1840年、21歳の時に初めて得た職は、ヨーゼフシュタット劇場の第三楽長で、始め無給であったばかりか、指揮者として地方の劇場を回り、また時には歌手として舞台にも上る極めて多忙なものだった。
作曲家としての活動も多忙を極め、5日に1本ともいわれるハイペースで作曲を重ねたが、作品は大衆に広く受け入れられ、当世の人気作曲家となった。
 「軽騎兵」は1866年に作曲され、アン・デア・ウィーン劇場で初演された。普墺戦争前夜という時局に乗ったのかどうか定かではないが、この二幕のオペレッタは大いに成功を収めた。

本日演奏する序曲は、大きく分けて5つの部分から成る。冒頭、非常によく知られたファンファーレをトランペットが奏し堂々とした序奏を開始する。
次いで、騎兵の疾走かあるいは剣劇を思わせるようなスリリングなアレグロから、軽快な行進曲へ、それがいったん落ち着くと、ハンガリー風の荘重なメロディーが現れる。最後に一転、行進曲が再現し、華やかな総奏のうちに結尾を迎える。
これに続く本編は現在演奏されることもなくストーリーも忘れられてしまったのだが軍隊をテーマにしたこの作品は色恋沙汰の多いオペレッタの中で一風変わったものだったろう。
参考までに―軽騎兵とは、重装備の歩兵や装甲した騎兵と違い、快速を武器に独立して行動し、偵察や奇襲に威力を発揮した兵科で、第一次大戦以降、飛行機や 軽車輌にとってかわられた。現在では、ウィーンの旧王宮内でのスペイン馬術のデモンストレーションにその姿の名残りを見ることができる。
 

 

チャイコフスキー:「くるみ割り人形」組曲

「眠りの森の美女」「白鳥の湖」と並ぶチャイコフスキー3大バレエ曲の最後となるこの曲は、ドイツの文豪ホフマンの「くるみ割り人形とねずみの王様」を原 作とするバレエ曲で1891年から1892年にかけて作曲され、1892年マリインスキー劇場で初演された。尚、バレエ化の際にはホフマンの原作ではな く、内容が簡略化され、よりメルヘンチックにデュマが翻訳したフランス語版を元にしている。
この組曲に含まれる曲は花のワルツを始めとして、いずれも有名な曲であり、CM等で耳に馴染みのある曲も多いだろう。この組曲に含まれる曲のみならず、全 曲に渡って、稀有のメロディストとしての彼の才能が発揮されたロマンチックな、叙情的な曲が散りばめられた名曲だ。実際、くるみ割り人形はバレエとしての 魅力は少々欠けており、その人気はチャイコフスキーの音楽に依るところが大きいという意見も多いようだ。また、この組曲しか知らない者に聞くと、ややもす ると「かわいらしいメルヘンチックな子ども向けの曲」と揶揄されることも多いが、実際のバレエの舞台に接すればその印象は一変することだろう。クリスマス の夜の物語ということで、日本でもクリスマスが近づくと国内外多くのバレエ団の上演が行われる。第九を聴くのも良いが、ぜひ一度実際のバレエでくるみ割り 人形の魅力に触れて頂きたい。

簡単にバレエのあらすじを紹介しよう。
さあバレエが始まる。ステージの幕はまだ降りたままだ。客席の灯が落ち、周りのざわめきも静かになる。暗闇の中、オーケストラピットから華麗な序曲が奏でられる(「Ⅰ.小序曲」)。軽やかなメロディーが流れ始めた瞬間から、これから始まる物語の世界に引き込まれるだろう。
あるクリスマスの夜、ドイツ、ニュルンベルグのシュタールバウム家ではクリスマス・パーティーが開かれる。娘のクララもたくさんのお客様を迎えてのパー ティーやクリスマスプレゼントを楽しみにしている。パーティーが始まり皆はダンスを踊ったりして楽しむ。子供達もダンスを踊る(「Ⅱ.行進曲」)。クララ の名付け親でもあるちょっと変わり者のドロッセルマイヤーは人形劇を観せたり、プレゼントを配ったりして、子供達も大喜び。そのプレゼントの中にくるみ割 り人形があったのだが、それはいかつく、不恰好で子供達は皆嫌がる。しかし、クララだけはそれを一目で気に入り貰うが、弟のフリッツが壊してしまう。やが てパーティーも終わり皆帰途に着く。クララは壊れたくるみ割り人形を不憫に思い、抱いたまま眠ってしまう。
気がつくと居間の時計が12時を告げる。するとどこからか不気味なねずみの大群が現れた。部屋の人形達も動き出し、くるみ割り人形に率いられ、ねずみ達と 戦う。くるみ割り人形とねずみの王様の一騎打ちとなるが、勇敢なクララの助けのおかげで、くるみ割り人形は戦いに勝利する。すると、醜かったくるみ割り人 形は王子様の姿になる。クララの優しさと助けてもらったことに感謝し、くるみ割り人形はクララをお菓子の国へ招待する。
第2幕、お菓子の国の宮殿でクララは、きらびやかな踊りを楽しむ。チョコレート、「Ⅴ.アラビアの踊り」、「Ⅵ.中国の踊り」、「Ⅳ.トレパック」、「Ⅶ.あし笛の踊り」そして「Ⅷ.花のワルツ」、夢のような世界だ。
クララと王子はグラン・パ・ド・ドゥを踊る(「Ⅲ.こんぺい糖の踊り」)。いつしかクララは眠っていた。そう、楽しい夢の旅も終わる時だ。気が付くとクララはくるみ割り人形を大事に抱いたまま寝室にいた。冒険の旅は夢だったのだろうか。

尚、ストーリーは演出によってクララの扱い等異なる。違う演出を見るのもバレエを観る楽しみの1つだ。また、なぜくるみ割り人形が王子様なのだ?と大人気ない疑問を思われる向きにはホフマンの原作を参照頂きたい。
このバレエを彩るチャイコフスキーの音楽は子どもも楽しむことができるものだが、決して「子どものために書いてあげた」曲ではない。それはむしろ、自分達 も昔―いろいろ夢憧れた― 子どもであった大人のための音楽のように感じる。ロマンチックながらも、いや、あまりにロマンチックだからこそ、どこか儚い音楽、そう思わないだろうか? だから、その音楽は大人が聴いても陳腐ではなく、楽しめ、感動できるのだ。
誰しもいつか見た夢の情景、お楽しみください。
 

ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」  (Hr.M.U)

 1841年ボヘミア(現在のチェコ)の宿屋兼肉屋の息子として生まれたドヴォルザークは、家業を継がせようとする父親の意志に逆らって音楽学校に進み、 劇場付きの管弦楽団のヴィオラ奏者として活動する傍ら、作曲を続けた。そしてオーストリア政府からの奨学金を5年連続得たことをきっかけに、審査員であっ たブラームスに認められ、以後兄弟のような交流を持つに至った。その後1892年ニューヨークのナショナル音楽院の院長として招かれ、新大陸アメリカに 渡った。そこで書かれたのが、彼の最後の交響曲である「新世界より」である。タイトルになっている「新世界」とは、もちろんアメリカのことである。
 初期の曲では、特にワーグナーから、また、中期以降(特に交響曲第6、7番あたり)は親交のあったブラームスからの影響が顕著であったが、この「新世界 より」ではそれらの影響から一歩抜け出し、それまでにないかなり独創的な交響曲となった。今ではオーソドックスな名曲としてすっかり耳慣れたものになって いるが、初演された当時(1893年)は、タイトルのとおり斬新な曲として驚きをもって聴かれたのではないか。
 この交響曲の第一の大きな特徴として、アメリカの音楽、特にインディアンや黒人の民謡の影響があげられる(ただし民謡そのものを直接引用はしていな い)。そのメロディは故郷ボヘミアの音楽との親近性を感じさせるものであり、そこにドヴォルザークも大いに共感し、この交響曲に反映させたものと思われ る。ちなみにそのメロディーは、日本人にとっても親しみやすく、どこか懐かしい感じを抱かせるものになっている。各楽章については以下の通り。

*第1楽章 アダージョ――アレグロ・モルト
 チェロによる瞑想的な序奏が徐々に盛り上がり、「新世界」の息吹を感じさせるようなホルンの第一主題に突入。この主題は、フルート・ソロによる小結尾主題とともに、他の楽章にも繰り返し姿を見せる。

*第2楽章 ラルゴ
 神秘的なコラール(この部分にのみチューバを使用している)に続きゆったりと奏されるイングリッシュ・ホルンの旋律はあまりにも有名。自分も小学校の 頃、下校の音楽「家路」として毎日耳にしていた。楽章後半、だんだんと人数を減らしながら、弦楽器がこの旋律を奏しているところは、本当にしみじみとした 感動を覚える。特にこの部分の最後(113小節目)は、それまでと旋律、和音が少し違っていて、思わず涙がこみ上げてくる。個人的に一番好きなところ。

*第3楽章 スケルツォ:モルト・ヴィヴァーチェ
 ボヘミア色の強い、そしてブルックナーをも思わせる無骨な感じのスケルツォ。2つあるうちの一番目のトリオ(中間部)は、速度を少し落とし、フルートと オーボエによって、のどかな、どこか日本的とも思えるような主題が奏される。(練習のときに、この旋律が、「おやつの○~る」のCMの歌に似ている、とい う話が出て、納得!!)

*第4楽章 アレグロ・コン・フォーコ
 トランペットとホルンによる有名な行進曲風の第一主題と、クラリネットによる抒情的な第二主題からなる。それまでの各楽章の主題も登場し、全曲を締めくくるにふさわしい壮大なクライマックスを築いている。

第20回特別記念演奏会プログラムノート

ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 Op.56a

 変奏曲。「主題に続いてその旋律・和声・リズム・性格などをさまざまな方法で変化させた幾段かを接続して構成した楽曲。独立した楽曲の場合と、ソナタ・交響曲などの一つの楽章をなす場合とがある。(広辞苑 第5版)」
変奏は、最も基本的な作曲技法の一つだが、きわめて奥が深い。「作曲は変奏に始まり変奏に終わる」という言葉があるのかどうか知らないが、あながちウソで はあるまい。一つの主題から、いかに多彩な変化を導き、いかに拡がりと奥行きのある世界を紡ぎ出せるか。バッハの「ゴルトベルク変奏曲」やベートーヴェン の「ディアベリ変奏曲」をはじめ、大作曲家の最大の挑戦が、そこにはある。

 ブラームスも、変奏曲を好んで作曲しており、ピアノのための「シューマンの主題による変奏曲」、「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」、「パガニーニ の主題による変奏曲」などが知られている。いずれも、他の作曲家の主題を生かしつつ、そこから展開される世界は紛れもなくブラームスのもの。それはこの 「ハイドンの主題による変奏曲」も同じだ。

 「ハイドンの主題」は、管楽ディベルティメントHob.II.46(今でも木管五重奏などの形でよく演奏されるが、偽作という説もある)の第2楽章に由来する。「コラール 聖アントーニ」と記され、元は古い賛美歌ではないかともいわれている。
 主題は、穏やかで古典的な風格を感じさせる。5+5小節(前半)、8+8+3小節(後半)という、フレーズ構造の「字余り」感が独特。後半に入ってからの和声の翳り、最後に繰り返し鳴らされるB(変ロ)音の鐘のような効果が、印象深い。
 変奏は8つ。第一変奏の冒頭から既に、ブラームスのファンタジーが拡がっていく。主題の骨格は何らかの形で維持されているものの、変奏を経るにつれ、テンポの緩急、拍子の変化、長調と短調との移ろいなど、聴く者を飽きさせない。
 幽霊のように早足で通り過ぎる第八変奏の後、静かに始まる終曲。低音楽器に現れる5小節の主題が18回も繰り返され、その上に多彩な変奏が展開される。 第4交響曲の第4楽章と同じパッサカリアの形式。最後に至って「聖アントーニのコラール」が徐々に全貌を明らかにしていき、全曲に統一感を与えている。

(なお、この曲には、2台ピアノのための版(作品56b)もある。オケ版(作品56a)とほぼ同一の曲だが、どちらがどちらの編曲という訳でもないらし い。それぞれ、違う世界が聞こえてくるのが不思議。この曲がお好きな方は、是非一度、2台ピアノ版の方も聴いてみてください。)

 

ブラームス:ドイツレクイエム 

『ドイツ・レクイエム』である。<ブラームス・チクルス>シリーズを始めた時から、「いつかはやりたい」と思い続けて来た曲である。その数年来の念願が、 ここに第20回記念演奏会という「時」と、新進気鋭の指揮者・ソリストそして経験豊かな合唱団という「人」を得て、めでたく実現のはこびとなった。御協力 頂いた関係者各位、あたたかいお志をお寄せ下さった方々、そして本日ご来場頂いた皆様に報いることができるよう、団員一同全力を尽くす所存である。ご照覧 頂きたい。

■沿革と音楽性 『ドイツ・レクイエム』は、ブラームスがまだ20代の前半の頃から作り始められながら、35才の時にようやく完成し発表された作品である。完璧主義者の傾向が強かったブラームスには、構想から完成までに何年も要した曲が少なくないが、これはその典型的な例だ。
 ブラームスにレクイエムを作らせたのは何か、については緒説あるが、恩師シューマンの悲劇的な死(1856年)に動機を得て構想し、敬愛する母の死 (1865年)を悼む思いに促されて完成をみた…と解釈するのが妥当な様だ。実際、曲の大部分は、1866年から1868年にかけて集中的に書かれてい る。
 この曲の成功によって、作曲家ブラームスの名声は決定的なものになった。ドイツでは今日なお、年に何回も演奏され、その度に満員の聴衆を集めるほど親しまれていると聞く。
 レクイエムを作るにあたって、ブラームスは通常のラテン語による鎮魂ミサのセットを用いず、ルターが訳したドイツ語の聖書の中から自分で言葉を選び詞を 編んだ。ブラームスが敬虔なプロテスタントだったためでもあろうが、かねてから死と生について深い思索を巡らしていた彼は、それを表現するにあたってお仕 着せのテクストでは到底満足できなかったのだと思う。
 こうして己の心に忠実に編んだテクストを、ブラームスは殊のほか大切に音楽にした。例えば聖書に頻出する言葉には、伝統的に(古文における枕詞のよう に)「この言葉にはこういう音形」という約束があるが、ブラームスはこれをふんだんに取り入れている。また、第3曲のフーガは一貫してバスの保続音(オル ゲンプンクト)に支えられているが、これはバロック音楽において確固たる信仰を象徴する表現技法である。
 このように古楽の様式によく則ってはいるものの、その音楽性には全く古びたところがなく、紛れもなくロマン派の音楽である。また旋律の傾向は、キリスト 教の宗教音楽としては異色であろう。たとえばフォーレのレクイエムがひたすらに「聖なるもの」への希求を歌い、終には天に昇ってしまうのに対し、この曲は あくまでじっと地に留まっている。特に象徴的な第2曲は、泥濘の中を重い荷を担いで一歩一歩進んでいるかのようですらある(私は初めて聴いた時、とりわけ この部分にしびれた)。
言うなれば、「神」ではなく「人」、「天国」ではなく「人の世」に主眼を置いて書かれた「レクイエム」なのである。それゆえか初演の頃には「信仰心が足り ない」との批判を受けたりもしたそうだが、なればこそこの曲は、キリスト教徒にとどまらずひろく「人間」を惹き付けてやまない。
 今回『ドイツ・レクイエム』を演奏するにあたり、私達は付け焼き刃ながら使われているテクストについても学んだ(音楽についてはもちろん?)。その成果 を活かし、ブラームスがテクストと音楽にこめた「思い」を、また私達がそれをどう理解し受け止めたかを、ご来場の皆様に感じとって頂ける演奏ができれば、 これに優る喜びはない。
■曲の構成について
 『ドイツ・レクイエム』は、以下の全7曲から成る。

第1曲 合唱 かなりゆっくりと、そして表情をつけて
    -ヘ長調、4分の4拍子
第2曲 合唱 ゆるやかに、行進曲風に
    -変ロ短調、4分の3拍子
第3曲 バリトン独唱を伴う合唱 アンダンテ・モデラート
    -ニ短調、2分の2拍子
第4曲 合唱 適当に運動的に
    -変ホ長調、4分の3拍子
第5曲 ソプラノ独唱を伴う合唱 ゆるやかに
    -ト長調、4分の4拍子
第6曲 バリトン独唱を伴う合唱 アンダンテ?ヴィヴァーチェ?アレグロ
    -ハ短調、4分の4拍子
第7曲 荘重に
    -ヘ長調、4分の4拍子

 第1曲と第7曲の対応がとりわけ顕著だが、各曲はテクストや音楽的な主題で相互に関連し、全体で-第1曲冒頭の希うような「幸い(Selig)」に始まり、第7曲結尾の噛み締めるような「幸い」で結ばれる-壮大なドラマを形作っている。
 前半1-3曲では遺された苦しみを歌い、慰めを希求する。これには第3曲コーダにおいて「ゆるぎなき信仰」という答えが示され、それを承けて第4、5曲 では安らぎが支配する(第5曲はいちばん最後に完成した曲だが、特に母の死を悼んで付け加えられたものと言われている)。
 第6曲で曲想は一転して再度「迷い、苦しみ→信仰の勝利」が歌われ、これまでのテーマを総括する。そして第7曲の、すべての悲しみや苦しみが昇華した、静謐な境地に至るのである。

特別演奏会 「ネオ・ロマンティシズム~20世紀の音楽シーンより」 プログラムノート

リヒャルト・シュトラウス:メタモルフォーゼン 

メタモルフォーゼンは「変容」と訳されるが、その意味するところは「形態を変化させること」である。
完成は、1945年4月12日。
偉大な作曲家シュトラウスが82歳を迎えようとしている時、社会的にはドイツの無条件降伏まであと1ヶ月と迫っていた。
愛したドレスデンは壊滅状態、またミュンヘンとウィーンの国立歌劇場も破壊され、この戦争による破壊に対する深い悲しみを抱きつつ1ヶ月の期間で書き上げられたのである。
スケッチ帳には晩年のゲーテの"温和な諷刺詩集"からの引用が記されている。
 「23のソロ弦楽奏者の為の習作」と副題が与えられているように、バイオリン10、ビオラ5、チェロ5、コントラバス3、といわゆる伝統的な弦楽合奏とは異なる編成であり、各奏者は独奏者として動かされる。
シュトラウスは作曲家としてのみならず指揮者としても成功を収めており、この2つの立場が相乗作用をおこし、大編成の管弦楽曲においても各奏者を独奏者として扱うことに秀でていた。
そういった意味では"メタモルフォーゼン"は作曲師シュトラウスのエッセンスとも言えるのではないか。
 この曲にはベートーベンとワーグナー、とりわけ"第3交響曲<英雄>"と"トリスタンとイゾルデ"のモチーフが深く刻み込まれている。
最期から9小節目のところには「IM MEMORIAM! 追悼」と書き込まれており、まさにそこからベートーベンの葬送行進曲がコントラバスによって奏でられ、メタモルフォーゼンは終焉を迎える。

ヒンデミット:白鳥を焼く男

なかなか強烈なタイトルだが、決して「白鳥を焼いている男」を描いている曲ではないのでご安心。
この曲にはヒンデミット自身がプログラムノートを記しており、その概略は、「一人の吟遊詩人が楽しい宴にやってきて、遠方の地から携えてきた数々の歌を即興で披露する」というものである。
つまり、ヴィオラソロは吟遊詩人の役割だ。1楽章は、ヴィオラソロの後のトロンボーン、ホルンによる、民謡『山と深い谷の間に』に基づき、2楽章は『小さな菩提樹よ、さぁその葉をふりおとせ』という民謡と(ヴィオラとハープのデュオの後の木管のコラール)、『鶯が垣根の上にとまっている』という民謡(中間部のフガート)から成る。3楽章は、『あなたは白鳥を焼く男ではありませんね?』という踊りの曲による陽気な変奏曲。

Paul Hindemith(1895~1963)は、その音楽がナチスに攻撃され、1939年に米国に亡命した。
『白鳥を焼く男』は、このような彼が受けた政治的迫害に対する抵抗を表している曲とも言われている。(吟遊詩人、すなわちヴィオラは、作曲当時、亡命することを予感していたヒンデミット自身であり、祖国を去る悲しさや、音楽の素晴らしさを謳っている)
 音楽を「道徳的、倫理的」と表現し、過度に美しく、甘美になることを警告したヒンデミット。
それゆえ、彼の音楽はどうも「理屈っぽい」と思われがちな気もするが、和声や旋律の力を信じた彼が聴衆に伝えたかった「何か」は、必ずあったはずである。
それを、ヴァイオリンでもチェロでもない(ましてやコントラバスでもない・・)、ヴィオラという楽器を媒体として用いて伝えようとしたことに、彼の魂を感じ取りたい。
そして本日は、そんなヴィオラが持つ魅力を、そしてソリスト須田さんの魅力を、十分に堪能して頂こう。

フォーレ:ペレアスとメリザンド

 狩の途中迷い込んだ森の中、謎の美少女メリザンドに出逢った王子ゴローは、彼女を妻とする。
が、メリザンドはゴローの異父弟ペレアスと次第に惹かれ合っていく。
ペレアスは嫉妬に狂ったゴローに殺され、メリザンドもまた、ペレアスの後を追うように、病で命を落とす…
 (要約すると身も蓋もないが)この深遠で暗示的なモーリス・メーテルリンク(メーテルランク)の戯曲「ペレアスとメリザンド」を題材として、1900年前後、フォーレ、ドビュッシー、シェーンベルク、シベリウスなどの大作曲家による作品が次々と生み出された。
中でも、同時代のフランスを代表する作曲家、フォーレ(英語版初演のための劇音楽(1898年)とこれを元にした組曲(1901年))とドビュッシー(オペラ(1902年))は、いずれも当時のフランス音楽の空気を反映しつつも、対照的な音楽を創造している。
印象主義的、感覚的なきらめきに溢れたドビュッシー。より古風で簡素、慎ましさと優しさに満ちたフォーレ。

 組曲は、「前奏曲」、「糸を紡ぐ女」、「シシリエンヌ」、「メリザンドの死」の4曲からなる。悲劇を暗示しつつ静かに高揚し、寂寥のうちに沈む「前奏曲」。沈鬱な葬送的音楽が次第に悲しみを深め、やがて浄化されていく「メリザンドの死」。
この深遠な両曲に対し、「糸を紡ぐ女」では回転する糸車のような弦楽器を背景にオーボエが、「シシリエンヌ」では涼やかなハープの音色を背景にフルートが、それぞれ控え目でありながら魅力的な旋律を奏でる。
悲劇的な運命のもたらす憂愁、その中での束の間の幸せや喜び、はかない美しさ。そんなフォーレの魅力を味わっていただける演奏にしたいものだ。

ミヨー:屋根の上の牛

バレエ音楽「屋根の上の牡牛」は、ダリウス・ミヨーの「六人組」へのリオ土産とも言うべき作品である。
ミヨーは1917年に友人ポール・クローデルがフランス大使としてブラジルに赴任した際、秘書官として同行し、リオ・デ・ジャネイロに2年間滞在した。
このブラジル滞在はミヨーに多くの刺激を与えたが、特に彼が魅了されたのは街角やカーニヴァルで聴かれる音楽であった。
1918年パリに帰ったミヨーはブラジルの民謡やタンゴ、サンバ、マシーシェをひとつの曲に作曲し、当時のブラジルの流行歌の題名を採り『屋根の上の牡牛』と名付けた。
ミヨーは「六人組」の一員として知られているが、この曲は「六人組」の舵取り役ジャン・コクトーとの最初の共同作業となった。
ミヨーはこの曲をチャップリンの無声映画の伴奏に使えたらと考えていた。
しかしこれを聴いたコクトーは劇場的エンターテイメントに仕立てる事を提案したのだ。
その舞台は現在では当時の写真や証言から想像するしかないのだが、道化役者、軽業師が共演したということから普通に思い浮かべるバレーとはかなり違うものだったろう。
初演は1920年2月21日で3日間の興業は大成功を納めた。
5か月後にはロンドンで2週間に渡って再演され非常な話題になった。
このロンドン滞在中にミヨーはジャズに出合い『世界の創造』という傑作を残すことになるのだが、それはまた別の話になるだろう。
曲は最初に現れるサンバ風の主題を中心に様々な旋律がロンドのように連結されていくもので、途中8分の3拍子の牧歌的な中間部を挟む。
全体に平明な印象だが調性配置が独特で全曲中にすべての調性が出現するように仕組まれていて頻繁に転調するため気が抜けない。
多調性技法(複数の調性が同時に演奏される)が多用され滑稽かつ幻惑的な効果を挙げているが、これまだ演奏者の耳を惑わせる。
ミヨーはロンドン再演の際、練習で現代音楽に不慣れな女性ホルニストを何度も叱りつけたらしいのだが、我々としては彼女に深く同情するばかりである。
このように一筋縄ではいかない曲だが全体に溢れる陽気なラテンのノリと1920年代の幕開きにふさわしい輝きを表現できたら成功だと思うのだが…。ご期待ください。

 

 

第18回定期演奏会プログラムノート

シューマン:交響曲第3番「ライン」

1850年、ロベルト・シューマン40歳。
この年は彼にとって大きな転機の年であった。長いこと定職のない時代が続いていたが、デュッセルドルフ市の合唱団指揮者に推薦され、散々迷った挙句ついに 引き受けることに決めたのである。シューマンは、このライン河畔の街に転居してから、わずか1ヶ月間でこの交響曲第3番を完成させた。ラインの明るい風光 を反映した作風から、この曲は通常「ライン」と呼ばれている。

交響曲第3番「ライン」は、シューマンの交響曲(全4曲)の中では人気が高く、おそらく最も演奏される機会が多い曲である。しかし、私にとって、この曲 は、長いことよく分からない曲だった。「ラインの明るい風光が反映された曲」と言い切ることのできない、異様な昂揚感、緊張感をこの曲の随所に感じるので ある。
たとえば1楽章。堰を切ったようにあふれる第1主題はヘミオラのリズムを刻みながらうねり、やがて、その合間をぬって、胸がしめつけられるような切ない旋 律の第2主題が現れる。この両者の相克と、お互いを巻き込みながら前に前にと進んでいく、この勢い、ひたむきさに「明るい」などという形容詞はまったくそ ぐわない。
また、2楽章の民謡風の鄙びた旋律は、ほのかな諧謔性を秘めているし、3楽章のささやくような旋律は、温かさに満ちているが、同時にため息の翳を帯びてい る。そして、葬送行進曲のようにモチーフが繰り返し立ち現れる4楽章…。何よりも私が不思議に感じるのは5楽章である。5楽章の第1主題は交響曲第2番の 終楽章のそれとよく似た音形だが、底流をなす心情は2番のそれよりずっと穏やかである。
ダンスのステップを踏むように躍動する若々しい旋律は、幸せの絶頂を歌っているようでありながら、もうその幸せは手中にはないという印象を抱かせる。2番 の終楽章が爆発的な歓喜の歌であるのに対し、3番のそれは過去の幸せを手の中で慈しんでいる、いわば過去形の歌のような気がしてならない。これは単なる思 い込みだろうか。

シューマンが初めてラインを見たのは19歳の春であった。彼はラインの印象を以下の様に書き記している。「目を開けると…前にラインが横たわっていまし た。そっと静かにおごそかに誇り高く、古いドイツの神のように」。このライン旅行は天気に恵まれ、彼は始終、上機嫌だった。「自ら(馬車の)手綱をとった のです。うわあ!馬が走ったことといったら!僕は何もかも忘れて陽気でした。こんな神様のように陽気だったことは今までなかったと思います」。このような 手記から、後年、精神を病み、ラインに身を投げるシューマンを想像することは難しい。彼に何が起こったのだろうか。

21歳、シューマンはピアニストを目指し猛練習を始めるが、無理な練習のせいで(梅毒という説もあるが)23歳で指を故障、ピアニストの道は断たれてしま う。意気消沈したシューマンは深刻な鬱状態に陥った。後に、その時の精神的危機について、シューマンは以下のように書いている。「1833年10月17 日、18日、急に恐ろしい考えに襲われた。人間が持ちうる限りの、天が人を罰しうる最も恐ろしい考えに…理性を失うという考えに。この考えに激しく囚われ てしまうと、慰めも祈りも嘲りも何の力もなくなる。この恐怖から僕はあちこちとさまよい…こう考えて、息が止まった…考えるということができなくなったら どうなる!…クララ、ここまで破壊された人間に病気も悩みも絶望もありはしないのだ…!(中略)…どうにもならない状態にまで追い込まれたら、自分の生命 に手をかけないとも保証できない、その恐ろしさ…」。文献によっては、この年、最初の自殺未遂を起こしたともいわれている。痛ましい限りだが、数ヵ月後、 日記に「正気。文筆の仕事を始める」という言葉が出るように、ひとまず回復。その頃からピアノ教師の娘クララとの間に少しずつ恋が育っていく。やがて二人 は深く愛し合うようになり、1837年に婚約。彼女の父親の猛烈な反対にあうが、裁判にまで持ち込んで、1840年、ようやく結婚にこぎつけた。幸せいっ ぱいのシューマンはこの1840年の1年間に大量の歌曲を作っている(136曲も!)。

しかし、結婚生活を送っていくうちに、シューマンの精神状態は再び悪化していく。9歳年下のクララは華奢で可憐なその風貌に合わず、メンデルスゾーンに 「鬼神のように弾く」と言わしめた実力派ピアニストで、すでに社会的に非常に高い評価を受けていた。それに対し、シューマンは「音楽評論家」兼「指揮者」 兼「作曲家」で、一部の人から高く評価されていたとはいえ無名の青年にすぎなかった。合唱団の指揮をしたり音楽学校で教鞭をとったりすることはあったが、 いずれも長くは続かず、当時、4人の子どもを抱えたシューマン家の生計は、ほとんどクララが支えていたと思われる。演奏旅行に同行すれば「クララの夫」と いう立場に甘んじなくてはいけないことも多かった。シューマンの焦りと悲しみは想像に難くない。

そして34歳、ついにシューマンは鬱、不眠、幻聴、幻覚を伴うひどい精神疾患の発作を起こしてしまう。芸術家によっては精神的危機の時でも(むしろその時 の方が)豊かな創造力を発揮する人もいるが、シューマンは発作が起こるとまったく仕事が手につかなくなってしまうタイプだった。同年、シューマンは音楽評 論の仕事を辞し、療養のためドレスデンに転居する。それから5年近くは、小康状態と鬱状態を行ったり来たりする生活を送ったようだ。

40歳、徐々に健康を取り戻していたシューマンに舞い込んできたのが、前述の、デュッセルドルフの合唱団指揮の仕事だった。この仕事を引き受け、5人の子 どもと6人目を身ごもったクララを連れて、デュッセルドルフに転居してきたシューマンの決意、覚悟の厳しさは想像に難くない。そんな意気込みを持つシュー マンの瞳に、ラインはどのように映ったのだろうか。19歳当時に感動した明媚な風光はそのままだっただろう。しかしそれを見つめるシューマン自身はなんと 変わってしまったことか。あの頃の屈託のなさと快活さは、深い精神疾患を患ったシューマンには、もう決して取り戻すことのできないものであった。

この曲が孕む異様な緊張感と昂揚感の原因は、このあたりにあるのではないだろうか。シューマンの「まだ俺は大丈夫だ」「ここで生きるのだ」という気迫、再 生への祈り、そして、若い日の幸せな思い出に対する憧憬の切実さが、この曲には満ち満ちている。今日の我々の演奏がそこまで表現できれば、これほど嬉しい ことはない。(ちなみに、シューマンはこの曲を作曲した4年後、ラインに身を投げた。救助された後は精神病院に収容され、2年後に死去。享年46歳であっ た。)

シューベルト:交響曲第3番

シューベルトの交響曲を当団が演奏するのは4、8、9番に続いて4曲目となる。
およそ古今の作曲家は天才揃いだが、シューベルトの天才ぶりはモーツァルトと並び群を抜いているように思う。彼は生涯に1000曲もの名曲を残しているが、その人生はわずか31年。つい先日彼の年齢を上回ったばかりの筆者としては、ただただ驚嘆するのみである。
さらに、この交響曲3番が作曲されたのはわずかに18歳の時で、1815年のことである。今で言えば、ちょうど高校を卒業したくらいの年齢だが、彼は既に学校の助教員を務めている。

さて、1815年と言えば今を去ること200年余、日本では江戸時代後期の文化・文政と呼ばれる時代である。時の将軍は11代徳川家斉、二本差しの武士が闊歩していたころである。
日本史の授業めいて恐縮だが、この時代は伊能忠敬が蝦夷地を探検し(1800)、間宮林蔵が樺太を探検し(1808)、異国船打ち払い令なるものが発布さ れ(1825)、わが日本は鎖国の真っ只中にあった。そんな時代に、遥か彼方のオーストリアではベートーベン、シューベルト、ウェーバー達が活躍していた のである。さらに余談だが、シューマンが「ライン」交響曲を作曲した1850年は、ペリーが浦賀に上陸して開国を迫った3年前にあたり、攘夷か開国かをめ ぐる幕末の動乱の萌芽が兆していた時期になる。

曲は型どおり4楽章からなる。1楽章はアダージョの序奏を持ったソナタ形式で、主部ではクラリネットのかわいらしい第1テーマと、オーボエの跳ねるような 第2テーマが印象的である。2楽章は本来は緩徐楽章だが、この曲ではアレグレットであり、同時期に作曲されたベートーベンの第7、第8交響曲の影響がみて とれる。
中間部ではクラリネットの旋律が微笑ましい。3楽章はメヌエットの表示であるが、スフォルツアンドが頻出しスケルツオとしての要素も認め られる。トリオではオーボエとファゴットが鄙びた旋律を歌う。終楽章はタランテラという飛び跳ねるようなリズムにのったプレストで、頻出する転調はシュー ベルトならではである。

さて、この交響曲は演奏によって、様相が一変する。この曲をこよなく愛したトーマス・ビーチャムはゆったりとしたテンポで美しい風景を眺めながら散歩する ような演奏であるが、カルロス・クライバーは一陣の風が吹き抜けるような爽快なテンポで駆け抜けている。われらがマエストロ金山によって当団がどのような 演奏を繰り広げるか、ご期待下さい。

第15回定期演奏会

1999年9月25日(土)19時開演
 バリオホール
 ヴァイオリン独奏:松村 一郎、ヴィオラ独奏:伴野 剛

  • イベール モーツァルトへのオマージュ
  • モーツァルト ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲
  • ベートーヴェン 交響曲第2番 ニ長調 作品36

第14回定期演奏会

1999年5月9日(日)14時開演
 紀尾井ホール
 指揮 & ピアノ独奏:内藤 佳有

  • モーツァルト ピアノ協奏曲第23番 イ長調 KV488
  • モーツァルト 交響曲第38番ニ長調 KV504 「プラハ」
  • シベリウス 交響曲第5番 変ホ長調 op.82

 

第13回定期演奏会プログラムノート

バルトーク:ヴィオラ協奏曲

 作曲者が死によって完成させることのできなかった作品を、弟子や学者が本人に代わって完成させるということは数多い。文学や絵画においては希なこの「補筆完成」という作業は、時に非常な困難を伴う。
バルトークは1945年、ヴィオラ奏者ウィリアム・プリムローズからの依頼でヴィオラ協奏曲を作曲したが、草稿の段階で白血病による死を迎える。 遺された草稿はバラバラの五線紙15枚に走り書きされたままのもので、もちろんオーケストレーションはされていないし、楽章の構成さえもはっきりと判別できるものではなかった。
 この遺稿を判読、補筆完成させたのが、バルトークの弟子で友人の一人、ティボール・シェルイ(1901-1978)である。 彼はやはりバルトークの未完成作品、ピアノ協奏曲第3番を補筆していたが、こちらは最後の十数小節をオーケストレーションするだけの作業だった。 しかし、ヴィオラ協奏曲は上記のような状態で遺されていたので、音符の判読だけにに4ヶ月もかかり、さらに内容を再構成してオーケストレーションを完成させることになった。
完成したスコアを見てみると、テクスチャーの極端に薄い部分が目立つが、バルトークが死の直前にプリムローズに宛てた手紙の「オーケストレーションはかな り透明なものになるでしょう」という一文に拘束されたものである。そしてヴィオラパートは「プリムローズ編」となっているが、プリムローズは演奏効果が上 がるように(難しく)書き換えた部分もあるようだ(このせいで、後のヴィオリスト達は必要以上に苦労することになる)。
 そして1995年、シェルイ版とは別に、ピーター・バルトーク(バルトークの息子)とネルソン・デラマッジョーによる新しい「改訂版」が出版された。 つまりこれからは、モーツァルトの「レクイエム」のように複数のヴァージョンが存在するのである。 今日の演奏はシェルイ版によって行われる。
(バルトークのヴィオラ協奏曲が補筆され、出版されたことの背景には、もちろんバルトークが偉大な作曲家であったことによるが、「ヴィオラ協奏曲」というジャンルの絶対的な曲不足も少なからず影響している。)

第1楽章 Moderato ソナタ形式。アタッカ:
第2楽章 Adagio religioso 変則的な3部形式。アタッカ:
第3楽章 Allegro vivace ロンド形式。

主な未完作品の分類
タイプA:未完の状態のまま演奏されるもの
 J.S.バッハ   フーガの技法
タイプB:途中の楽章(幕)まで演奏されるもの
 マーラー    交響曲第10番 Adagio
 ブルックナー  交響曲第9番
 シェーンベルク 歌劇「モーゼとアロン」(最終幕は台詞のみで上演)
タイプC:他人によって補筆完成されたもの(括弧内は補筆者)
 モーツァルト  レクイエム(ジュスマイアー、バイアー等数種)
 マーラー    交響曲第10番(クック)
 プッチーニ   歌劇「トゥーランドット」(アルファーノ)
 ベルク     歌劇「ルル」(ツェルハ)
バルトーク   ピアノ協奏曲第3番(シェルイ)
バルトーク   ヴィオラ協奏曲(シェルイ、P.バルトーク&デラマッジョーの2種)。

第11回定期演奏会

1998年1月24日(土)19時開演
 川口リリア音楽ホール
 指揮者:麻生 哲也 コントラバス:中田 延亮

  • ストラヴィンスキー 協奏曲「ダンバートン・オークス」
  • クーセヴィツキー コントラバス協奏曲嬰へ短調
  • ブラームス セレナーデ第1番ニ長調

 

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