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過去演奏会のパンフ掲載のコンテンツ。曲目紹介(プログラムノート)、エッセイなど。

第20回特別記念演奏会プログラムノート

ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 Op.56a

 変奏曲。「主題に続いてその旋律・和声・リズム・性格などをさまざまな方法で変化させた幾段かを接続して構成した楽曲。独立した楽曲の場合と、ソナタ・交響曲などの一つの楽章をなす場合とがある。(広辞苑 第5版)」
変奏は、最も基本的な作曲技法の一つだが、きわめて奥が深い。「作曲は変奏に始まり変奏に終わる」という言葉があるのかどうか知らないが、あながちウソで はあるまい。一つの主題から、いかに多彩な変化を導き、いかに拡がりと奥行きのある世界を紡ぎ出せるか。バッハの「ゴルトベルク変奏曲」やベートーヴェン の「ディアベリ変奏曲」をはじめ、大作曲家の最大の挑戦が、そこにはある。

 ブラームスも、変奏曲を好んで作曲しており、ピアノのための「シューマンの主題による変奏曲」、「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」、「パガニーニ の主題による変奏曲」などが知られている。いずれも、他の作曲家の主題を生かしつつ、そこから展開される世界は紛れもなくブラームスのもの。それはこの 「ハイドンの主題による変奏曲」も同じだ。

 「ハイドンの主題」は、管楽ディベルティメントHob.II.46(今でも木管五重奏などの形でよく演奏されるが、偽作という説もある)の第2楽章に由来する。「コラール 聖アントーニ」と記され、元は古い賛美歌ではないかともいわれている。
 主題は、穏やかで古典的な風格を感じさせる。5+5小節(前半)、8+8+3小節(後半)という、フレーズ構造の「字余り」感が独特。後半に入ってからの和声の翳り、最後に繰り返し鳴らされるB(変ロ)音の鐘のような効果が、印象深い。
 変奏は8つ。第一変奏の冒頭から既に、ブラームスのファンタジーが拡がっていく。主題の骨格は何らかの形で維持されているものの、変奏を経るにつれ、テンポの緩急、拍子の変化、長調と短調との移ろいなど、聴く者を飽きさせない。
 幽霊のように早足で通り過ぎる第八変奏の後、静かに始まる終曲。低音楽器に現れる5小節の主題が18回も繰り返され、その上に多彩な変奏が展開される。 第4交響曲の第4楽章と同じパッサカリアの形式。最後に至って「聖アントーニのコラール」が徐々に全貌を明らかにしていき、全曲に統一感を与えている。

(なお、この曲には、2台ピアノのための版(作品56b)もある。オケ版(作品56a)とほぼ同一の曲だが、どちらがどちらの編曲という訳でもないらし い。それぞれ、違う世界が聞こえてくるのが不思議。この曲がお好きな方は、是非一度、2台ピアノ版の方も聴いてみてください。)

 

ブラームス:ドイツレクイエム 

『ドイツ・レクイエム』である。<ブラームス・チクルス>シリーズを始めた時から、「いつかはやりたい」と思い続けて来た曲である。その数年来の念願が、 ここに第20回記念演奏会という「時」と、新進気鋭の指揮者・ソリストそして経験豊かな合唱団という「人」を得て、めでたく実現のはこびとなった。御協力 頂いた関係者各位、あたたかいお志をお寄せ下さった方々、そして本日ご来場頂いた皆様に報いることができるよう、団員一同全力を尽くす所存である。ご照覧 頂きたい。

■沿革と音楽性 『ドイツ・レクイエム』は、ブラームスがまだ20代の前半の頃から作り始められながら、35才の時にようやく完成し発表された作品である。完璧主義者の傾向が強かったブラームスには、構想から完成までに何年も要した曲が少なくないが、これはその典型的な例だ。
 ブラームスにレクイエムを作らせたのは何か、については緒説あるが、恩師シューマンの悲劇的な死(1856年)に動機を得て構想し、敬愛する母の死 (1865年)を悼む思いに促されて完成をみた…と解釈するのが妥当な様だ。実際、曲の大部分は、1866年から1868年にかけて集中的に書かれてい る。
 この曲の成功によって、作曲家ブラームスの名声は決定的なものになった。ドイツでは今日なお、年に何回も演奏され、その度に満員の聴衆を集めるほど親しまれていると聞く。
 レクイエムを作るにあたって、ブラームスは通常のラテン語による鎮魂ミサのセットを用いず、ルターが訳したドイツ語の聖書の中から自分で言葉を選び詞を 編んだ。ブラームスが敬虔なプロテスタントだったためでもあろうが、かねてから死と生について深い思索を巡らしていた彼は、それを表現するにあたってお仕 着せのテクストでは到底満足できなかったのだと思う。
 こうして己の心に忠実に編んだテクストを、ブラームスは殊のほか大切に音楽にした。例えば聖書に頻出する言葉には、伝統的に(古文における枕詞のよう に)「この言葉にはこういう音形」という約束があるが、ブラームスはこれをふんだんに取り入れている。また、第3曲のフーガは一貫してバスの保続音(オル ゲンプンクト)に支えられているが、これはバロック音楽において確固たる信仰を象徴する表現技法である。
 このように古楽の様式によく則ってはいるものの、その音楽性には全く古びたところがなく、紛れもなくロマン派の音楽である。また旋律の傾向は、キリスト 教の宗教音楽としては異色であろう。たとえばフォーレのレクイエムがひたすらに「聖なるもの」への希求を歌い、終には天に昇ってしまうのに対し、この曲は あくまでじっと地に留まっている。特に象徴的な第2曲は、泥濘の中を重い荷を担いで一歩一歩進んでいるかのようですらある(私は初めて聴いた時、とりわけ この部分にしびれた)。
言うなれば、「神」ではなく「人」、「天国」ではなく「人の世」に主眼を置いて書かれた「レクイエム」なのである。それゆえか初演の頃には「信仰心が足り ない」との批判を受けたりもしたそうだが、なればこそこの曲は、キリスト教徒にとどまらずひろく「人間」を惹き付けてやまない。
 今回『ドイツ・レクイエム』を演奏するにあたり、私達は付け焼き刃ながら使われているテクストについても学んだ(音楽についてはもちろん?)。その成果 を活かし、ブラームスがテクストと音楽にこめた「思い」を、また私達がそれをどう理解し受け止めたかを、ご来場の皆様に感じとって頂ける演奏ができれば、 これに優る喜びはない。
■曲の構成について
 『ドイツ・レクイエム』は、以下の全7曲から成る。

第1曲 合唱 かなりゆっくりと、そして表情をつけて
    -ヘ長調、4分の4拍子
第2曲 合唱 ゆるやかに、行進曲風に
    -変ロ短調、4分の3拍子
第3曲 バリトン独唱を伴う合唱 アンダンテ・モデラート
    -ニ短調、2分の2拍子
第4曲 合唱 適当に運動的に
    -変ホ長調、4分の3拍子
第5曲 ソプラノ独唱を伴う合唱 ゆるやかに
    -ト長調、4分の4拍子
第6曲 バリトン独唱を伴う合唱 アンダンテ?ヴィヴァーチェ?アレグロ
    -ハ短調、4分の4拍子
第7曲 荘重に
    -ヘ長調、4分の4拍子

 第1曲と第7曲の対応がとりわけ顕著だが、各曲はテクストや音楽的な主題で相互に関連し、全体で-第1曲冒頭の希うような「幸い(Selig)」に始まり、第7曲結尾の噛み締めるような「幸い」で結ばれる-壮大なドラマを形作っている。
 前半1-3曲では遺された苦しみを歌い、慰めを希求する。これには第3曲コーダにおいて「ゆるぎなき信仰」という答えが示され、それを承けて第4、5曲 では安らぎが支配する(第5曲はいちばん最後に完成した曲だが、特に母の死を悼んで付け加えられたものと言われている)。
 第6曲で曲想は一転して再度「迷い、苦しみ→信仰の勝利」が歌われ、これまでのテーマを総括する。そして第7曲の、すべての悲しみや苦しみが昇華した、静謐な境地に至るのである。

特別演奏会 「ネオ・ロマンティシズム~20世紀の音楽シーンより」 プログラムノート

リヒャルト・シュトラウス:メタモルフォーゼン 

メタモルフォーゼンは「変容」と訳されるが、その意味するところは「形態を変化させること」である。
完成は、1945年4月12日。
偉大な作曲家シュトラウスが82歳を迎えようとしている時、社会的にはドイツの無条件降伏まであと1ヶ月と迫っていた。
愛したドレスデンは壊滅状態、またミュンヘンとウィーンの国立歌劇場も破壊され、この戦争による破壊に対する深い悲しみを抱きつつ1ヶ月の期間で書き上げられたのである。
スケッチ帳には晩年のゲーテの"温和な諷刺詩集"からの引用が記されている。
 「23のソロ弦楽奏者の為の習作」と副題が与えられているように、バイオリン10、ビオラ5、チェロ5、コントラバス3、といわゆる伝統的な弦楽合奏とは異なる編成であり、各奏者は独奏者として動かされる。
シュトラウスは作曲家としてのみならず指揮者としても成功を収めており、この2つの立場が相乗作用をおこし、大編成の管弦楽曲においても各奏者を独奏者として扱うことに秀でていた。
そういった意味では"メタモルフォーゼン"は作曲師シュトラウスのエッセンスとも言えるのではないか。
 この曲にはベートーベンとワーグナー、とりわけ"第3交響曲<英雄>"と"トリスタンとイゾルデ"のモチーフが深く刻み込まれている。
最期から9小節目のところには「IM MEMORIAM! 追悼」と書き込まれており、まさにそこからベートーベンの葬送行進曲がコントラバスによって奏でられ、メタモルフォーゼンは終焉を迎える。

ヒンデミット:白鳥を焼く男

なかなか強烈なタイトルだが、決して「白鳥を焼いている男」を描いている曲ではないのでご安心。
この曲にはヒンデミット自身がプログラムノートを記しており、その概略は、「一人の吟遊詩人が楽しい宴にやってきて、遠方の地から携えてきた数々の歌を即興で披露する」というものである。
つまり、ヴィオラソロは吟遊詩人の役割だ。1楽章は、ヴィオラソロの後のトロンボーン、ホルンによる、民謡『山と深い谷の間に』に基づき、2楽章は『小さな菩提樹よ、さぁその葉をふりおとせ』という民謡と(ヴィオラとハープのデュオの後の木管のコラール)、『鶯が垣根の上にとまっている』という民謡(中間部のフガート)から成る。3楽章は、『あなたは白鳥を焼く男ではありませんね?』という踊りの曲による陽気な変奏曲。

Paul Hindemith(1895~1963)は、その音楽がナチスに攻撃され、1939年に米国に亡命した。
『白鳥を焼く男』は、このような彼が受けた政治的迫害に対する抵抗を表している曲とも言われている。(吟遊詩人、すなわちヴィオラは、作曲当時、亡命することを予感していたヒンデミット自身であり、祖国を去る悲しさや、音楽の素晴らしさを謳っている)
 音楽を「道徳的、倫理的」と表現し、過度に美しく、甘美になることを警告したヒンデミット。
それゆえ、彼の音楽はどうも「理屈っぽい」と思われがちな気もするが、和声や旋律の力を信じた彼が聴衆に伝えたかった「何か」は、必ずあったはずである。
それを、ヴァイオリンでもチェロでもない(ましてやコントラバスでもない・・)、ヴィオラという楽器を媒体として用いて伝えようとしたことに、彼の魂を感じ取りたい。
そして本日は、そんなヴィオラが持つ魅力を、そしてソリスト須田さんの魅力を、十分に堪能して頂こう。

フォーレ:ペレアスとメリザンド

 狩の途中迷い込んだ森の中、謎の美少女メリザンドに出逢った王子ゴローは、彼女を妻とする。
が、メリザンドはゴローの異父弟ペレアスと次第に惹かれ合っていく。
ペレアスは嫉妬に狂ったゴローに殺され、メリザンドもまた、ペレアスの後を追うように、病で命を落とす…
 (要約すると身も蓋もないが)この深遠で暗示的なモーリス・メーテルリンク(メーテルランク)の戯曲「ペレアスとメリザンド」を題材として、1900年前後、フォーレ、ドビュッシー、シェーンベルク、シベリウスなどの大作曲家による作品が次々と生み出された。
中でも、同時代のフランスを代表する作曲家、フォーレ(英語版初演のための劇音楽(1898年)とこれを元にした組曲(1901年))とドビュッシー(オペラ(1902年))は、いずれも当時のフランス音楽の空気を反映しつつも、対照的な音楽を創造している。
印象主義的、感覚的なきらめきに溢れたドビュッシー。より古風で簡素、慎ましさと優しさに満ちたフォーレ。

 組曲は、「前奏曲」、「糸を紡ぐ女」、「シシリエンヌ」、「メリザンドの死」の4曲からなる。悲劇を暗示しつつ静かに高揚し、寂寥のうちに沈む「前奏曲」。沈鬱な葬送的音楽が次第に悲しみを深め、やがて浄化されていく「メリザンドの死」。
この深遠な両曲に対し、「糸を紡ぐ女」では回転する糸車のような弦楽器を背景にオーボエが、「シシリエンヌ」では涼やかなハープの音色を背景にフルートが、それぞれ控え目でありながら魅力的な旋律を奏でる。
悲劇的な運命のもたらす憂愁、その中での束の間の幸せや喜び、はかない美しさ。そんなフォーレの魅力を味わっていただける演奏にしたいものだ。

ミヨー:屋根の上の牛

バレエ音楽「屋根の上の牡牛」は、ダリウス・ミヨーの「六人組」へのリオ土産とも言うべき作品である。
ミヨーは1917年に友人ポール・クローデルがフランス大使としてブラジルに赴任した際、秘書官として同行し、リオ・デ・ジャネイロに2年間滞在した。
このブラジル滞在はミヨーに多くの刺激を与えたが、特に彼が魅了されたのは街角やカーニヴァルで聴かれる音楽であった。
1918年パリに帰ったミヨーはブラジルの民謡やタンゴ、サンバ、マシーシェをひとつの曲に作曲し、当時のブラジルの流行歌の題名を採り『屋根の上の牡牛』と名付けた。
ミヨーは「六人組」の一員として知られているが、この曲は「六人組」の舵取り役ジャン・コクトーとの最初の共同作業となった。
ミヨーはこの曲をチャップリンの無声映画の伴奏に使えたらと考えていた。
しかしこれを聴いたコクトーは劇場的エンターテイメントに仕立てる事を提案したのだ。
その舞台は現在では当時の写真や証言から想像するしかないのだが、道化役者、軽業師が共演したということから普通に思い浮かべるバレーとはかなり違うものだったろう。
初演は1920年2月21日で3日間の興業は大成功を納めた。
5か月後にはロンドンで2週間に渡って再演され非常な話題になった。
このロンドン滞在中にミヨーはジャズに出合い『世界の創造』という傑作を残すことになるのだが、それはまた別の話になるだろう。
曲は最初に現れるサンバ風の主題を中心に様々な旋律がロンドのように連結されていくもので、途中8分の3拍子の牧歌的な中間部を挟む。
全体に平明な印象だが調性配置が独特で全曲中にすべての調性が出現するように仕組まれていて頻繁に転調するため気が抜けない。
多調性技法(複数の調性が同時に演奏される)が多用され滑稽かつ幻惑的な効果を挙げているが、これまだ演奏者の耳を惑わせる。
ミヨーはロンドン再演の際、練習で現代音楽に不慣れな女性ホルニストを何度も叱りつけたらしいのだが、我々としては彼女に深く同情するばかりである。
このように一筋縄ではいかない曲だが全体に溢れる陽気なラテンのノリと1920年代の幕開きにふさわしい輝きを表現できたら成功だと思うのだが…。ご期待ください。

 

 

第18回定期演奏会プログラムノート

シューマン:交響曲第3番「ライン」

1850年、ロベルト・シューマン40歳。
この年は彼にとって大きな転機の年であった。長いこと定職のない時代が続いていたが、デュッセルドルフ市の合唱団指揮者に推薦され、散々迷った挙句ついに 引き受けることに決めたのである。シューマンは、このライン河畔の街に転居してから、わずか1ヶ月間でこの交響曲第3番を完成させた。ラインの明るい風光 を反映した作風から、この曲は通常「ライン」と呼ばれている。

交響曲第3番「ライン」は、シューマンの交響曲(全4曲)の中では人気が高く、おそらく最も演奏される機会が多い曲である。しかし、私にとって、この曲 は、長いことよく分からない曲だった。「ラインの明るい風光が反映された曲」と言い切ることのできない、異様な昂揚感、緊張感をこの曲の随所に感じるので ある。
たとえば1楽章。堰を切ったようにあふれる第1主題はヘミオラのリズムを刻みながらうねり、やがて、その合間をぬって、胸がしめつけられるような切ない旋 律の第2主題が現れる。この両者の相克と、お互いを巻き込みながら前に前にと進んでいく、この勢い、ひたむきさに「明るい」などという形容詞はまったくそ ぐわない。
また、2楽章の民謡風の鄙びた旋律は、ほのかな諧謔性を秘めているし、3楽章のささやくような旋律は、温かさに満ちているが、同時にため息の翳を帯びてい る。そして、葬送行進曲のようにモチーフが繰り返し立ち現れる4楽章…。何よりも私が不思議に感じるのは5楽章である。5楽章の第1主題は交響曲第2番の 終楽章のそれとよく似た音形だが、底流をなす心情は2番のそれよりずっと穏やかである。
ダンスのステップを踏むように躍動する若々しい旋律は、幸せの絶頂を歌っているようでありながら、もうその幸せは手中にはないという印象を抱かせる。2番 の終楽章が爆発的な歓喜の歌であるのに対し、3番のそれは過去の幸せを手の中で慈しんでいる、いわば過去形の歌のような気がしてならない。これは単なる思 い込みだろうか。

シューマンが初めてラインを見たのは19歳の春であった。彼はラインの印象を以下の様に書き記している。「目を開けると…前にラインが横たわっていまし た。そっと静かにおごそかに誇り高く、古いドイツの神のように」。このライン旅行は天気に恵まれ、彼は始終、上機嫌だった。「自ら(馬車の)手綱をとった のです。うわあ!馬が走ったことといったら!僕は何もかも忘れて陽気でした。こんな神様のように陽気だったことは今までなかったと思います」。このような 手記から、後年、精神を病み、ラインに身を投げるシューマンを想像することは難しい。彼に何が起こったのだろうか。

21歳、シューマンはピアニストを目指し猛練習を始めるが、無理な練習のせいで(梅毒という説もあるが)23歳で指を故障、ピアニストの道は断たれてしま う。意気消沈したシューマンは深刻な鬱状態に陥った。後に、その時の精神的危機について、シューマンは以下のように書いている。「1833年10月17 日、18日、急に恐ろしい考えに襲われた。人間が持ちうる限りの、天が人を罰しうる最も恐ろしい考えに…理性を失うという考えに。この考えに激しく囚われ てしまうと、慰めも祈りも嘲りも何の力もなくなる。この恐怖から僕はあちこちとさまよい…こう考えて、息が止まった…考えるということができなくなったら どうなる!…クララ、ここまで破壊された人間に病気も悩みも絶望もありはしないのだ…!(中略)…どうにもならない状態にまで追い込まれたら、自分の生命 に手をかけないとも保証できない、その恐ろしさ…」。文献によっては、この年、最初の自殺未遂を起こしたともいわれている。痛ましい限りだが、数ヵ月後、 日記に「正気。文筆の仕事を始める」という言葉が出るように、ひとまず回復。その頃からピアノ教師の娘クララとの間に少しずつ恋が育っていく。やがて二人 は深く愛し合うようになり、1837年に婚約。彼女の父親の猛烈な反対にあうが、裁判にまで持ち込んで、1840年、ようやく結婚にこぎつけた。幸せいっ ぱいのシューマンはこの1840年の1年間に大量の歌曲を作っている(136曲も!)。

しかし、結婚生活を送っていくうちに、シューマンの精神状態は再び悪化していく。9歳年下のクララは華奢で可憐なその風貌に合わず、メンデルスゾーンに 「鬼神のように弾く」と言わしめた実力派ピアニストで、すでに社会的に非常に高い評価を受けていた。それに対し、シューマンは「音楽評論家」兼「指揮者」 兼「作曲家」で、一部の人から高く評価されていたとはいえ無名の青年にすぎなかった。合唱団の指揮をしたり音楽学校で教鞭をとったりすることはあったが、 いずれも長くは続かず、当時、4人の子どもを抱えたシューマン家の生計は、ほとんどクララが支えていたと思われる。演奏旅行に同行すれば「クララの夫」と いう立場に甘んじなくてはいけないことも多かった。シューマンの焦りと悲しみは想像に難くない。

そして34歳、ついにシューマンは鬱、不眠、幻聴、幻覚を伴うひどい精神疾患の発作を起こしてしまう。芸術家によっては精神的危機の時でも(むしろその時 の方が)豊かな創造力を発揮する人もいるが、シューマンは発作が起こるとまったく仕事が手につかなくなってしまうタイプだった。同年、シューマンは音楽評 論の仕事を辞し、療養のためドレスデンに転居する。それから5年近くは、小康状態と鬱状態を行ったり来たりする生活を送ったようだ。

40歳、徐々に健康を取り戻していたシューマンに舞い込んできたのが、前述の、デュッセルドルフの合唱団指揮の仕事だった。この仕事を引き受け、5人の子 どもと6人目を身ごもったクララを連れて、デュッセルドルフに転居してきたシューマンの決意、覚悟の厳しさは想像に難くない。そんな意気込みを持つシュー マンの瞳に、ラインはどのように映ったのだろうか。19歳当時に感動した明媚な風光はそのままだっただろう。しかしそれを見つめるシューマン自身はなんと 変わってしまったことか。あの頃の屈託のなさと快活さは、深い精神疾患を患ったシューマンには、もう決して取り戻すことのできないものであった。

この曲が孕む異様な緊張感と昂揚感の原因は、このあたりにあるのではないだろうか。シューマンの「まだ俺は大丈夫だ」「ここで生きるのだ」という気迫、再 生への祈り、そして、若い日の幸せな思い出に対する憧憬の切実さが、この曲には満ち満ちている。今日の我々の演奏がそこまで表現できれば、これほど嬉しい ことはない。(ちなみに、シューマンはこの曲を作曲した4年後、ラインに身を投げた。救助された後は精神病院に収容され、2年後に死去。享年46歳であっ た。)

シューベルト:交響曲第3番

シューベルトの交響曲を当団が演奏するのは4、8、9番に続いて4曲目となる。
およそ古今の作曲家は天才揃いだが、シューベルトの天才ぶりはモーツァルトと並び群を抜いているように思う。彼は生涯に1000曲もの名曲を残しているが、その人生はわずか31年。つい先日彼の年齢を上回ったばかりの筆者としては、ただただ驚嘆するのみである。
さらに、この交響曲3番が作曲されたのはわずかに18歳の時で、1815年のことである。今で言えば、ちょうど高校を卒業したくらいの年齢だが、彼は既に学校の助教員を務めている。

さて、1815年と言えば今を去ること200年余、日本では江戸時代後期の文化・文政と呼ばれる時代である。時の将軍は11代徳川家斉、二本差しの武士が闊歩していたころである。
日本史の授業めいて恐縮だが、この時代は伊能忠敬が蝦夷地を探検し(1800)、間宮林蔵が樺太を探検し(1808)、異国船打ち払い令なるものが発布さ れ(1825)、わが日本は鎖国の真っ只中にあった。そんな時代に、遥か彼方のオーストリアではベートーベン、シューベルト、ウェーバー達が活躍していた のである。さらに余談だが、シューマンが「ライン」交響曲を作曲した1850年は、ペリーが浦賀に上陸して開国を迫った3年前にあたり、攘夷か開国かをめ ぐる幕末の動乱の萌芽が兆していた時期になる。

曲は型どおり4楽章からなる。1楽章はアダージョの序奏を持ったソナタ形式で、主部ではクラリネットのかわいらしい第1テーマと、オーボエの跳ねるような 第2テーマが印象的である。2楽章は本来は緩徐楽章だが、この曲ではアレグレットであり、同時期に作曲されたベートーベンの第7、第8交響曲の影響がみて とれる。
中間部ではクラリネットの旋律が微笑ましい。3楽章はメヌエットの表示であるが、スフォルツアンドが頻出しスケルツオとしての要素も認め られる。トリオではオーボエとファゴットが鄙びた旋律を歌う。終楽章はタランテラという飛び跳ねるようなリズムにのったプレストで、頻出する転調はシュー ベルトならではである。

さて、この交響曲は演奏によって、様相が一変する。この曲をこよなく愛したトーマス・ビーチャムはゆったりとしたテンポで美しい風景を眺めながら散歩する ような演奏であるが、カルロス・クライバーは一陣の風が吹き抜けるような爽快なテンポで駆け抜けている。われらがマエストロ金山によって当団がどのような 演奏を繰り広げるか、ご期待下さい。

第15回定期演奏会

1999年9月25日(土)19時開演
 バリオホール
 ヴァイオリン独奏:松村 一郎、ヴィオラ独奏:伴野 剛

  • イベール モーツァルトへのオマージュ
  • モーツァルト ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲
  • ベートーヴェン 交響曲第2番 ニ長調 作品36

第14回定期演奏会

1999年5月9日(日)14時開演
 紀尾井ホール
 指揮 & ピアノ独奏:内藤 佳有

  • モーツァルト ピアノ協奏曲第23番 イ長調 KV488
  • モーツァルト 交響曲第38番ニ長調 KV504 「プラハ」
  • シベリウス 交響曲第5番 変ホ長調 op.82

 

第13回定期演奏会プログラムノート

バルトーク:ヴィオラ協奏曲

 作曲者が死によって完成させることのできなかった作品を、弟子や学者が本人に代わって完成させるということは数多い。文学や絵画においては希なこの「補筆完成」という作業は、時に非常な困難を伴う。
バルトークは1945年、ヴィオラ奏者ウィリアム・プリムローズからの依頼でヴィオラ協奏曲を作曲したが、草稿の段階で白血病による死を迎える。 遺された草稿はバラバラの五線紙15枚に走り書きされたままのもので、もちろんオーケストレーションはされていないし、楽章の構成さえもはっきりと判別できるものではなかった。
 この遺稿を判読、補筆完成させたのが、バルトークの弟子で友人の一人、ティボール・シェルイ(1901-1978)である。 彼はやはりバルトークの未完成作品、ピアノ協奏曲第3番を補筆していたが、こちらは最後の十数小節をオーケストレーションするだけの作業だった。 しかし、ヴィオラ協奏曲は上記のような状態で遺されていたので、音符の判読だけにに4ヶ月もかかり、さらに内容を再構成してオーケストレーションを完成させることになった。
完成したスコアを見てみると、テクスチャーの極端に薄い部分が目立つが、バルトークが死の直前にプリムローズに宛てた手紙の「オーケストレーションはかな り透明なものになるでしょう」という一文に拘束されたものである。そしてヴィオラパートは「プリムローズ編」となっているが、プリムローズは演奏効果が上 がるように(難しく)書き換えた部分もあるようだ(このせいで、後のヴィオリスト達は必要以上に苦労することになる)。
 そして1995年、シェルイ版とは別に、ピーター・バルトーク(バルトークの息子)とネルソン・デラマッジョーによる新しい「改訂版」が出版された。 つまりこれからは、モーツァルトの「レクイエム」のように複数のヴァージョンが存在するのである。 今日の演奏はシェルイ版によって行われる。
(バルトークのヴィオラ協奏曲が補筆され、出版されたことの背景には、もちろんバルトークが偉大な作曲家であったことによるが、「ヴィオラ協奏曲」というジャンルの絶対的な曲不足も少なからず影響している。)

第1楽章 Moderato ソナタ形式。アタッカ:
第2楽章 Adagio religioso 変則的な3部形式。アタッカ:
第3楽章 Allegro vivace ロンド形式。

主な未完作品の分類
タイプA:未完の状態のまま演奏されるもの
 J.S.バッハ   フーガの技法
タイプB:途中の楽章(幕)まで演奏されるもの
 マーラー    交響曲第10番 Adagio
 ブルックナー  交響曲第9番
 シェーンベルク 歌劇「モーゼとアロン」(最終幕は台詞のみで上演)
タイプC:他人によって補筆完成されたもの(括弧内は補筆者)
 モーツァルト  レクイエム(ジュスマイアー、バイアー等数種)
 マーラー    交響曲第10番(クック)
 プッチーニ   歌劇「トゥーランドット」(アルファーノ)
 ベルク     歌劇「ルル」(ツェルハ)
バルトーク   ピアノ協奏曲第3番(シェルイ)
バルトーク   ヴィオラ協奏曲(シェルイ、P.バルトーク&デラマッジョーの2種)。

第11回定期演奏会

1998年1月24日(土)19時開演
 川口リリア音楽ホール
 指揮者:麻生 哲也 コントラバス:中田 延亮

  • ストラヴィンスキー 協奏曲「ダンバートン・オークス」
  • クーセヴィツキー コントラバス協奏曲嬰へ短調
  • ブラームス セレナーデ第1番ニ長調

 

第9回演奏会

1997年5月11日(日)
 三鷹市芸術文化センター風のホール
 指揮:河原 哲也

  • シューベルト 交響曲第4番ハ短調
  • ビゼー 交響曲第1番ハ長調
  • モーツァルト ディヴェルティメント KV137

 

特別演奏会Vol.2~ストリングスの悦楽~プログラムノート

ヴォーン=ウィリアムズ:タリスの主題による幻想曲

 T・タリス(1505~1585)、ダウランド、パーセル、とルネサンスからバロックにかけての隆盛のあと、イギリス作曲界には長い空白時代が訪れていた。
 その後エルガー(1857~1934)、ブリテン(1901~1976)の登場によって、イギリス音楽界は再度沸き返ることになるのだが、この二人のちょうど中間世代に位置するのがヴォーン=ウィリアムズ(1872~1958)である。
 「タリスの主題による幻想曲」は1901年にある音楽祭の為に書かれた弦楽合奏曲で、2つのオーケストラ・グループ(それぞれ別の場所に配置される)とソロ・カルテットの編成により演奏される。 ヴォーン・ウィリアムズは依然よりイギリス讃美歌集の編集を行っており、その中に含まれていたタリス作曲の讃美歌の一遍からこの曲のテーマを得たようだ。
 ノルマン様式の荘厳な協会をイメージした、と作曲家自身が語るように、全体を透明で敬虔な雰囲気が統一しており、主題の性格にもよるのかいくぶん中世的で素朴な香りを残している。
 曲は冒頭、「ハムレット」劇の亡霊の足音を思わせる低弦ピッツィカートによってタリスの主題を準備した後、"幻想曲"という標題が示すようにテーマを自由に展開していく。
 中間、ヴィオラ・ソロに始まるソロ・カルテットから次第に激しさを増していき(この辺の盛り上がりはまさに"悦楽"として取り上げる所以でもある)、三連符を伴う力強いクライマックスを経たあと、徐々に穏やかさを取り戻し、終結へと向かっていく。  ごく小さな編成からなる第二オーケストラは第一オーケストラのエコーの役割を果たしており、その呼応はあたかも聴衆が大聖堂の中にいるような錯覚を生み出すほどの音楽空間を作り出す。
 概してイギリス音楽はドイツ的な起承転結や、ラテン的な情熱に欠ける為、とらえどころがなく、一つ間違えば退屈さに転じる性質を持っている。だがしっかりと耳を傾ければ、この憂愁、静謐なロマンティシズムはほかにとって代えがたいものがある。 イギリスには他にもディーリアス、フィンジなど美しい曲を書いた作曲家が数多く存在する。 今回の演奏をきっかけとして多くの方にイギリス音楽への造詣を深めていただければ幸いである。

第8回演奏会

1996年12月22日(日)
 三鷹市芸術文化センター風のホール
 指揮:金山 隆夫

  • シューベルト 交響曲第8番「未完成」ロ短調
  • ヒンデミット 弦楽器と金管楽器のための演奏会用音楽
  • ベートーヴェン 交響曲第4番変ロ長調

 

特別演奏会「ヴァイオリニスト 天満敦子を迎えて」

1996年8月24日(土)14時開演
 ティアラこうとう大ホール
 指揮:金山 隆夫 ヴァイオリン:天満 敦子

  • ウェーベルン フーガ(リチェルカータ)「J.S.バッハ『音楽の捧げもの』
  • ~六声のリチェルカーレ」に基づく
  • プロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調
  • ブラームス ヴァイオリン協奏曲ニ長調

 

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